ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

ヨガ、瞑想、小脳

[お岩さん]
2017年の春まだき頃、籾殻燻炭を作った
その頃から、右まぶたがぽってりはれて来た
どんどん広がり、顔半分が葡萄の房を貼り付けたようになった
眼がとび出した
その形相、お岩さんそのものだった
(後で思ったが、お岩さんは脳腫瘍だと思う
その症状、私とそっくりだ) 

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 [しこり]

3月14日、近くの眼科医院へ行った
眼の周囲を触診してポツリ、目の奥にしこりがある、と
驚いて聞き返した、しこりとは何か!、がんの事か!、と
医者は答えなかった、ここでは脳の中は分からないから紹介状を書く、と
脳の中、という言葉に、私は二度驚いた
 
[銀色の塊]
翌15日、関東労災病院MRIを撮った
その画像に驚いた
頭蓋骨を輪切りの写真、その上部には眼球の空洞がある
その直下に、卵大の銀色に光る塊があった
医者はその画像を見ながら、同僚の医師と延々と電話を始めた
(後でその医師は、脳外科医だったと知った)
電話が終わるのももどかしく、私は聞いた
「あの白い塊は、ガンですか!」、と
「ここでは分からない、紹介状を書く」
「どこですか!」
 
分からない、分からない、の連発だが、紹介状は一直線ではないか!
私は観念した、脳腫瘍だ・・・
この日私は、病院の廊下で崩れて泣いた
 
[空気、空気、空気]
私は、通帳を一つにした
妻と子に、家の権利書を教え、電気ガス水道通信の全部を振込に変えた
遺族年金も調べた、7割程が妻に支払われる、と知った
妻も友も励ましてくれたが、苦しさ恐ろしさからは逃げられなかった
胸が焼け、胸を掻きむしり、胸を叩き、河原に倒れて胸を打った
息苦しくて、たまらなかった
田舎で始めた畑、もっとやりたかった
道の駅から近いから、カフェも開きたかった
これらが狂おしいほど、狂おしく、胸が渇いた
死そのものの恐怖や、家族との別れや苦しみを思わなかったのは、今となれば不思議だし、人により、苦悩の種類は異なるのだろうか
 
[執着]
胸が苦しく、空気が欲しくて、欲しくて、欲しくて、広い河原へ行った
広かった、流れの上も、流れの下も、頭上の空も
少年野球が、声を張り上げていた
幼児が遊具に、取り付こうとしていた
足元には、紫の菜の花が一輪、一輪、また一輪
皆々、輝いていた、美しかった
たまらずいとおしい、と思った
何故だろう
私の心が、諦め、遠のいて行く
執着が、薄れ始めた
息苦しさが、遠のき始めた
と云うか、私を狂わせるのが執着だった、と気付き始めた
 
[大脳、哺乳類脳]
仏教では、愛憎を執着と云い、遠ざけるらしい
分からなかったし、逆にキリスト教では愛は徳目だが、この時初めて分かる気がした
これがある限り、死は恐ろしいものに化けて襲いかかる
そして七転八倒、狂い泣きしながら、死ぬ事になる
執着の最たるものは、善悪、正邪、愛憎のような強い情念だ
これだけは避けなければならない、最悪だ
それより弱いがやはり、理想、希望、夢、これらも執着なのだと知った
これら共通項は、大脳の空想の産物、これに気が付いた
 
[小脳、爬虫類脳]
対する河川敷での発見、共通項、それは小脳の世界ではないだろうか
小脳の世界とは、執着の無い世界ではないだろうか
小脳に生きる爬虫類は、善悪を知らず、愛憎を知らず、執着を知らない
大脳を持つ哺乳類にして初めて、いつくしみと憎しみを知り、正邪を知り、また夢を見る
これが巨大な妄想を生み、執着を生む
これが無ければそもそも、生も死も、その境界も、知らずに済んだのではないだろうか
 
[瞑想]
河川敷での発見以来、私は部屋で瞑想するようになった
掛け軸と一輪挿しを前に、尻に座ぶとんを当てがい、まぶたを閉じる
昔、瞑想を教えてもらった事がある
(それと河川敷の情景がかぶさった・・・)
暗い部屋で、静かに音が流れ、言われるままに、自身の懐かしい風景を、楽しかった情景を繋いでいく
私は、故郷の川や林に分け入り、在るものを在るがままに見た
それら多くは幼少期の記憶であり、その情景の連鎖だった
今思えば意思、と云うものが無い世界だった
あの時と河川敷は、瓜二つだった
意思が無い、そして執着が無い、小脳の世界、爬虫類の世界だ
死ぬ時は子供に戻ると云う、きっとこれではないだろうか
話はそれないと思うが、もうろく、認知症アルツハイマー、これは神のプレゼントでは無いだろうか
死の恐ろしさから逃れる為、神様が大脳を殺してくれたのではないだろうか
(西洋医学・・・、これを治そうとしている
これを治せば、もっと恐ろしい物が現れる
それが分からないのだろうか)
 
[青空]
一週間後3月22日、予約に従い、国立がん研究センターへ行った
私はたまらず詰め寄ったが、医者は答えなかった
「ガンか否か、その為に手術では、さすがにバカバカしいでしょう」とステロイド薬を処方された
「ガンに効く薬は無い
もしこれを飲んで効いたらガンではない
効かなければ・・・」との説明だった
それから数日、目の腫れは峠を下り始めた
この時初めて光明が、射し込んだ
4月5日、二度目のがんセンターだ
この時、眼の腫れはほぼ消失していた
けれども医者は、何も言わず、三度目を指定した
4月25日、最後の審判が来た
目の腫れは完全に消え、遂に医師は結論を口にした
がんセンターから出て、薄曇りの築地の空、浜離宮庭園で寝転んで仰ぎ見た空、どこまでも明るく、広く、自由だった・・・
 
[小脳と仏教]
自分の体験を細かく述べたのは、そこで発見した「瞑想」の救いを具体的に示せば分かって貰えるかと思ったからだ
さて問題は、その同じ事をニ千六百年前に言った人が居る、と言う事
ブッダ、だ
仏教とは何か、大きすぎて答えられない、それは確かだ
ただそれは、最初は小さかった原始仏教に、周辺の国々が色んな物を付属させていったからだ
その大乗では、政治、民族、文化、哲学、心理学等をてんこ盛りに積み重ねていった
龍樹は実存主義を盛り、世親は心理学を盛り、民衆は濃厚な土俗信仰と自然崇拝を盛った
これらは皆、旺盛な「生」の発露であり、好きに言い争って遊んでいればいい、と思う
私には彼等が、生を享受し享楽している、と見える
しかしその分、ブッダは後ろに隠れた
さて私は、死の淵を覗き込んだ今、はっきり分かる、ブッダの言った事が
ブッダは「小脳」を言いたかったのだ
 
日本では、仏教が仏教で始まったと言う印象を持ってしまうが、間違いだ
仏教は紛れもなくヨガの一派であり、その血肉は百パーセント、ヨガと同一だ
事実インドでは、ブッダはヨガの行者の一人とされ尊崇されている
そのヨガとは何か?
枝葉を払えば、インナーマッスル、だ
これは、力仕事で使うアウターマッスルに対する言葉で、その筋肉を静かに戻すべく、その内側にペアで存在している筋肉、それがインナーマッスル
重石を持ち上げた背筋は、腹筋で休む
強く握られた拳は、小指で戻る
登山の足は、外ももで登り内ももで戻す
これ実は、肌の色と一致している
背中は黒く腹は白い、腕の外は黒く内は白い、
足の前は黒く後ろは白い
これら各筋肉は、胴、腕、足の外側の黒い所にアウターマッスルがあり、内側の白い所にインナーマッスルがある
これは示唆に富む
人は元々四足だったからだ
四足動物は、陽に当る皮が黒く、陽に当たらない皮が白い
これがそれぞれに、アウターとインナーのマッスルが対応している
インド人はこのインナーマッスルを発見し、これを刺激し目覚めさせる事で、体をコントロールできる事を発見した
調整だけでなく、病気を治し、病気を避け、予防医学に迄高めた
このブログの最初にアップした樺島氏の「禅体操」は正にこれであり、私の肩、腰、膝、踝の痛みはおろか、呼吸で姿勢を整えたので心肺機能が向上し、花粉症まで改善した
胸が開き、姿勢が垂直に、顎が引かれ、歩けばももが上がり足が軽い
それはショーウィンドウの影を見て知ったが、スキッとし、スカッとするのが、禅体操の後の第一義的爽快感だ
つまりインナーマッスルで、体だけでなく心まで整う
人やその言葉がスラリと通り、世界が好意と善意に満ちて感じられる
面白い
大脳は意思を持ち、小脳と延髄は体と手足に命令し、筋肉が順次に連続して動くが、これは逆も真ではないだろうか
つまりインナーマッスルを鍛え整えると、自律神経を伝わり小脳が心地良くなる
短く言えば、心を変えたいなら、身体から変えた方が早い
 
[内臓と座禅]
このヨガの対象は筋肉であり、この筋肉は当然意識も認識もできる
しかしインナーマッスルの最たるものである内臓、休めとも働けとも命令できない心臓や胃腸、意識にさえのぼらない肝臓や腎臓や脾臓、ヨガはどうやってこれらをコントロールするのだろう
実はそれが座禅、なのだ
仏像は、結跏趺坐を組み、目は半眼にして見るとも見ないとも無く、手指は印を結び、いつ見ても座禅をなさっていらっしゃる
これによってこそ、ヨガは内臓をコントロールするのだ
座禅は、不動心、根性、精神等などと言われ、要を得ない
当の僧侶でさえ、定見は見られない
理由は単純でなく、一筋縄で行かないからだ
なので以下では話を、二段、三段に分けて構える
先ず神様は人体の設計に当たり、一つのミスを犯した
人体の重要な内臓器官の筋肉は、悉く小脳と自律神経が司どり、気まぐれな大脳の配下には置かなかった
その筈だったが、出来てビックリ、肺で設計ミスが起きていた
他の内臓は筋肉組織と自律神経で固め小脳の下に収めたが、肺はただの袋であり、これ自身に収縮拡張の能力を持つ筋肉、これを付与するのを忘れたのだ
慌てて横隔膜の上下で、肺に「収縮拡張」と「呼吸」をさせる機能を付け加えたのだが、この横隔膜、元は大脳神経系の配下にあった物だった
大失敗と言っていい
そんな訳で肺だけは、普段は小脳、意識すれば大脳でも操作可能な臓器になった
ここに目を付けたのが、座禅という呼吸法だ
実は肺については、もう一つの重大なミスが重なっていたのだが、これはどうも神様自身も気が付いていないようなのだ
つまり呼吸は、横隔膜だけでは完璧とは言えず、「姿勢」が隠れたネックになっていた
うつむき肩をすぼめると胸が小さくなり、横隔膜が動作しても半分量の空気さえも取り込めない事態が発生した
街行く人を数えるといい、背筋の伸びた人は十人に一人いるかどうか
つまり背骨という大黒柱を、骨盤と両下肢の上に真っ直ぐに立てるための筋肉群(大腰筋、腸骨筋、脊柱起立筋群、腰方形筋、臀筋群、広背筋、腸脛靭帯)と腹筋、これらを今簡単に「姿勢筋」と呼ぶが、これが加齢と共に急速に衰えて、姿勢が崩れ、体が呼吸不全と酸欠状態になっている
そろそろお分かりだろうか、座禅とは姿勢筋を鍛える運動、ヨガだった
運動とは程遠い姿勢と思うだろうが、ヨガとはポーズであり元より動きはない
かくして姿勢筋を鍛え姿勢を正し、大量の空気が取り込める胸に改造する
つまり、神様が作り忘れた呼吸筋は、横隔膜と姿勢筋で代替されたのだ
呼吸筋はイコール姿勢筋なのだ
そしてもう一つの横隔膜だが、これを大きく下げて少しでも多くの空気を取り込む工夫、これを丹田呼吸法と世間では言っている
そして肺が座禅で活発化すれば、「心肺」と並び称される心臓も活発化する
これで新鮮な酸素と血液が、体の隅々に行き渡る
肝臓に行けば解毒処理され、腎臓に行けば老廃物が処理され、胃腸に行けば栄養を取り込み、肺に行けば酸素が溶け込む
だから「座禅」は、根性とも精神とも関係ない
座禅をこのように説明した僧侶にも、会ったことはない
 
[仏教は宗教ではない]
話はそれるが、原始仏教は宗教ではない事、それより医学に近い事、お分かり戴けた事と思う
キリスト教イスラム教、ユダヤ教儒教などは皆、倫理だ
それまで自然の猛威に恐れおののいていた人類が、自然を破壊し都市文明という人工の対人空間で暮らすようになり、自然のルール、即ち自然崇拝が役に立たなくなり、人間のルール、即ち人間宗教が必要になった
その需要に応じた各宗祖たちが、広げて見せたのは倫理であったが、そんな言葉は無かったので、宗教と名付けたと言う事だった
ただ仏教も、原始仏教が上座仏教に引き継がれた時は倫理宗教に変身している
同じく原始仏教大乗仏教に引き継がれた時は、自然崇拝に戻った、と私は思っている
その境目で生まれた龍樹哲学と世親心理学は、余りにも大きく大きく、人類史上の奇観、人類史上のバケモノと言っていい
(失礼だが、西洋哲学は幼稚園に見える)
 
[ブッダと瞑想]
ようやく「瞑想」に近づいた
ただ私自身、瞑想が分かっている訳ではないのです
以下はその知っている特徴を、羅列するだけです
 
1)ひとまず整理すると、インナーマッスルと座禅までは、仏教はヨガから飛び出していない
ヨガと座禅迄は、体の事、予防医学の事だった
仏教がヨガから別れて認識されるのは、瞑想を言い出したからだと思う
瞑想による救い、瞑想による解脱を言い出したのだ
瞑想が目的であり、ヨガの修養は基礎課程になった
 
2)仏教は、死や苦しみや生の否定からスタートしている、と非難される
現に仏典は、生老病死や煩悩などの言葉に溢れ、喜びや楽しみの事は何も書いてないから無理もないのだが、それは違う
生きていて楽しい内は、それで良いのだ
問題は、悩み苦しみ、そして最大の矛盾である死に直面した時、しかも解決出来れば良いのだが、解決できない問題はどうしますか、と言うのが仏典の記述なのだ
この時、瞑想と言う方法が有りますよ、と言ったのがブッダだったのだ
私が何故そう思うかと言えば、最初に述べたガン宣告(正しくは紛らわしい腫瘍)で死の恐怖に苦しんだ私が瞑想で救われ、死でさえその恐れ苦しみから離れられた、からだ
死の次に来る苦しみは、家庭崩壊や肉親間の憎しみなどだろうが、死でさえ遠ざかるのだから、当然これらにも効く、と私は確信できる
それより軽い幾多の悩みは、各人の努力で解決すれば良い
 
3)ブッダの時代に瞑想という言葉があれば、仏典はもっと分かりやすかった、と思う
仏典は、意味不明、難解、非論理的、同じ内容を示すおびただしい数の単語などなど、およそ論理や筋道からは遠い
その理由は瞑想を陳述したかったからなのであり、他の宗教の経典とは目的が違っていたからだと思う
為にその書は、御経とかスートラとか言われ、意味や内容がある物とは思われていない
瞑想の他にもう一つこの時期に、大脳小脳とその言葉が発見されていれば、仏典はガラリと変わっていたろう、と思う
難解にして難解な世親の書だが、私に言わせればあれは小脳の世界を記述している
阿頼耶識を始め、今の言葉で言えば遺伝子にまで、或はその遺伝子に仕込まれた宇宙の意思、そこにまで探究を重ねた狂気の書だが、私に言わせれば、大脳は虚であり小脳は実だ、と言っている
その小脳の世界に没入しトランスする行為、それが瞑想なのだ
 
4)大脳と小脳
学校で教えるのはその模式図と、大脳は思考を担い、小脳は自律神経を束ねる、と言う事だろうか
これに加えて私は大脳と小脳は、哺乳類脳と爬虫類脳と言えば分かりやすいと思う
哺乳類脳は物や出来事を認識し、考えたり言葉にしたり、瞬間瞬間に判断を積み重ねている
このお陰で我々は、資本主義社会と金の世渡りが出来ている
さてその認識方法だが、二分法がよく現れる
高い低い、上と下、長い短い、広い狭い・・・、これらは相対する物が有っての話で実体ではない
この延長に俺とあいつが、好きと嫌い、尊い卑しい、上か下か、先か後か・・・、が生まれて来て段々生臭くなって来る
お分かりだろうか
この世の苦しみは、実は大脳の創造物、大脳の仮想現実であり、大脳が無ければ存在しない物ではないのか・・・・、と
仏典で煩悩や業と言っているのは、これの事だ
一方爬虫類脳だが、これは鰐を思い浮かべれば分かりやすい
水面から体半分だけ出して石程も動かない、蝶々が横切ろうが、蛙が小便をしようが、鳥が背を歩こうが
ところが獲物が守備範囲の内側に入るや、ガバと一撃、目にも止まらぬ早業で岩が動く
これが小脳、これが爬虫類脳だ
この鰐の脳は、俺とあいつの、上下や後先や貴賎を比べたりしない、という事だ
或はこの鰐が年を取り弱ってきたら、俺は弱ったと思うだろうが、死に怯えるという想像力は有るだろうか、という事だ
小脳とは、そして瞑想とは、鰐の事ではないだろうか

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5)瞑想は、姿勢は無いようだ
座っても横になっても、座禅型でも良いようだ
大脳からトランスする為に、例えば幼少期の風景に自分を置き、それを見それを追うのが私の方法だ
それがうまく行けば、どんな悩み苦しみ、死の恐怖からも離れらる
もう一つ参考までに
小脳に気持ちいい、と思ってもらう事だ
それは人によるが、絵描き、音楽、おしゃれ、登山、スポーツなどがあると思う
これに没頭すれば、時を忘れる
滝の汗で峰に登り眺めれば、下界のいざこざやあつれき、何と小さい事かと心が洗われる
この気持ちは、ケーブルカーでいきなり頂上に立っても得られない
汗をかき筋肉で登るうちに小脳優位となり、その小脳が発する世界観なのだ
仏教は大脳の世界ではなく、小脳の世界が本当だと言っている