ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

「邪馬台国は熊本県」に追加

以下を、前のブログ「邪馬台国熊本県、伊藤雅文氏」に追加します

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3のおまけ)
さて魏志倭人伝には「邪馬台国は会稽東治の東」と事もなげに記されている
私は不思議に思う、全行程万ニ千里と共に、学者は何故これを言わないのか、と

中国の江蘇省に会稽東治と言う土地がある

揚子江の河口で、紹興酒の産地に近い
実はその真東に、熊本がある
この時点でいくつも驚く
この時期に、緯度の概念はあったのか?、と
もう一つこれは、漢代と魏のこの時代、政治的安定の元での、東シナ海の豊かな交流を意味している
邪馬台国が会稽東治の東だと言う事は、これらを踏まえなければあり得ない
魏志倭人伝に現れる魏の官吏は、人跡未踏の南極大陸に行ったのではなく、逞しい民間交流の足跡をなぞっただけ、という事なのだ
従って本来の魏志倭人伝には「不彌国(博多)からは百里投馬国(吉野ケ里)、百里邪馬台国(熊本)、帯方群から合計万ニ千里」と書いてあった、筈である
西晋陳寿三国志を書いた280年に、この事を疑う者はいなかった
 
ところがその後五湖十六国と南北朝の混乱時代に入り、東シナ海の交流が絶え、「邪馬台国は会稽東治の東」の常識が実感から消え、文献上だけの存在になった
困った事に、福建省に会稽東冶と言う似た地名がある
さんずいとにすいの、点一つの違いで、誠に紛らわしい
その会稽東冶は福建省なのでぐっと下り、その東は熊本ではなく、距離的には沖縄辺りまで遠のく
決定的だったのは、432年に後漢書を書いた宋の范曄がその中で、「邪馬台国は会稽東冶の東」としてしまったのだ
勿論彼も悩んだと思うが、既に実感は失われ実証不可能であり、机の上だけで考えた結果なのだろう
いずれにせよこれが国の、公式見解になってしまった
(つまり文部省検定済になった)
そうすると本来の魏志倭人伝の「不彌国から百里投馬国、百里邪馬台国」ではとても「会稽東冶」まで届かない
仕方なく、魏志倭人伝をいじらなければならなくなった
それでその里程、六百里を水行二十日、七百里を水行十日陸行一月として、水増しした
 
(話はそれるが、西晋陳寿280年に三国志を書き、宋の范曄が432年に後漢書を書いた、と言う事に疑問を持たれたろうか?
王朝は後漢の後が魏なのに、正史は三国志が先に出来て後漢書が後に書かれた
大逆転している
五湖十六国と南北朝の混乱が、ここにもある
まして「邪馬台国は会稽東治の東」か「会稽東冶の東」かなど分からなくなって当然、そもそもその間150年に亘り、二十個ほどの王朝に跨っている)