ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

円海山のおじいさん

山に行き始めて、もう15年ほどでしょうか・・・

いえ、山に登るつもりはありませんでした

山を歩けば、腰痛が治るかと思ったのです

そして、私はおじいさんに会いました・・・

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拝啓

 

植物は覚えるのに骨が折れますね・・・。植物は何千何万とあります。一つずつ覚えていたのでは焼け石に水。私も覚えたい、という気持ちはあったのですが、その先が続きませんでした。そこで一つ、「覚える秘訣」をご紹介しましょう。昔、ある先生が、「取り敢えず50、覚えなさい」、「それから後は、これはあれの仲間、あれはこれの仲間、と分かるようになります」と教えてくれました。「それは良い事を聞いた!」と実行しようとしたのですが、さっそく頓挫。最初の50にどれを選んで良いか分からないのです。素人とは情けないものだと自戒しました。そして、それから20年近くたった去年の初夏、私は50種の樹木を選定してもらう機会に恵まれました。貪るようにそれだけを覚え、どこに在っても、雨に濡れていても、その木なら必ず分かるように努めました。それから後はさすがに、図鑑の力と自分の足で歩けるようになりました。それどころか自分の知らない木に出くわすと、「おお、誰だ、オマエは。よ~し、今見てやるからな」と楽しみになりました。(全部知っているかのような口ぶりで、誤解を誘います)。正確に申せば、私が知っている樹木は現在180種です。日本には樹木だけで1800種あるそうです。ちなみにイギリスでは500種、また、あの小さな台湾では3000種だそうです。


50種の樹木・・・。私にとってこれは、あるほろ苦い思い出につながります。少し長い話になって恐縮ですが、思い切ってお話ししましょう。これを言わないと丹沢が出て来ないのです。お送りした例の篭も登場します・・・。さて鎌倉を取り巻く山があります。一番高い峰には名前があり、「太平山」と言います。その一角から北に、横浜へと伸びる尾根があり、「円海山」と呼ばれます。いずれも160メートルに満たない低山ですが、前者は持ち主があり植林し、スギとヒノキが多く、後者は植生が豊かで、横浜市が借り受けたのか、自然保護地区に指定されています。そこでは「日本野鳥の会」から派遣された専門家や、ボランティアたちが様々な活動をし、また市職員が腕章を付けて巡回しているそうです。(以上、序幕とその背景)

一年前、ぎっくり腰の治療・予防から、この山を歩き始めた私は楽しくてたまりませんでした。「道」が楽しかったのです。この沢を下ればこの町へ、あの尾根を辿ればあの町へ。それらを縦横無尽に繋ぐ尾根道。この「自由」な感覚がたまらなく好きでした。けもの道や、消えた道も、たくさん発見しました。私は、天狗はいると確信します。私は「里の民」に対する「山の民」の存在を信じます。後で分かった事ですが、その尾根道は「しらさが通り」と云い、古代の「たたら衆」が踏み分けた道だったのです。枝葉を払えば、これが日本古代における、稲作民族と騎馬民族の住み分けだろうと思うのです。稲作民族は照葉樹林帯を破壊し、文明を切り開きましたが、騎馬民族は山を山として生活したので、ブナ帯に浸透したのでしょう。「自由」と「独立」のヨーロッパ人と相通じる所があるように思われますが、それは別の話。さて、熱中する余り、鎌倉の山と、横浜の円海山の接点である「市境広場」と呼ばれる一角に、いつ行ってもおじいさんが居る事に気が付いたのは、去年の初夏を迎える頃でした。小柄で貧弱、年は70代半ばでしょうか、おどおどした中にも優しい目をしたおじいさんでした。破れた運動靴からは小指がのぞき、いつも篭を編んでいて、一つ500円で売っていました。私は挨拶をして通り過ぎていました。(第二幕終わり)
 
ある時、しらさが通りを歩いていたら、前方に蔓を束ねた、山のような荷があります。かと思えば、その下から二本の足が生え、のっし、のっし、と歩いています。「アッ、あの人だ」と駆け寄り挨拶をしました。その時、おじいさんの言葉に、かすかな関西風の訛りがある事に気が付きました。「いつも篭を編んでますね・・・。その蔓は何と言う木ですか・・・」。話し始めてすぐ分かったのは、このおじいさんは木に詳しい事です。(この時、私の知る木はサクラとツツジとツバキ・・・でしょうか)。歩きながら指差し、「この木は白い」、「あの木は年輪が無い」。材木関係の人かな、と思います。ところがヒノキについて聞くと、「あの木は植えられない。普通の木は、根から髪の毛のような根が出ているものだが、ヒノキの根は丸坊主だ」。「ほら」と言って崖の泥を払い、木の根っこを見せてくれるのです。「営林所かな」と思い直します。かと思うと「ナラとクリの見分け方、分かる?」。「え~と、葉っぱがこうなっているから・・・」。「ハハ、葉っぱはいつもあるとは限らんぞ。肌を見るのじゃ。割れ目が互い違いになっているのがナラ、上まで一本なのがクリ」。私には見分けがつきません。「昔な~、雪で山に閉じ込められてな~、出られんようになってな~、クリの木でしゃもじを作って一冬過ごしたもんだ」。歩きながら次々と木を指差し、名前を言い、性質を言い、使い道を言い、5メートルと歩かぬ内にまた次の名前が出てきます。私の頭はとっくにパンクし、恐れと驚愕のまなざしで、おじいさんの横顔を見るだけでした。(第三幕終わり)

驚きの締めくくりが次の言葉でした。「わしはこの土地のもんではないからな~、ここの木は、分からないの」と首をうなだれるのです。こんなに知っていて何を言うか!。学者と言えども使い方迄は・・・。もうお分かりでしよう。50種選んでくれたのはこのおじいさんなのです。そしてこの時が、私の頭が「道」から「木」に、スイッチオンした瞬間でした。それからは狂ったようにしらさが通りへ通い、おじいさんが指さした木を、思い出しては、覚えたのです。さ~て、さてさて。この後も驚きは立て続けに襲って来ました。山菜や薬草からでしょうか、草の事なら何でも知っている人、キノコ一筋20年の人、スコップ片手の山芋掘りの名人。立ち止まってじっと天を仰いでいる人がいるので声をかけたら、「あそこに○×△がいる」。なんか珍しい鳥の名前だったような気がしますが、私には高枝と、抜けるような、青い空が見えるだけ・・・。これら、神様みたいな人には共通点があります。ボロを身にまとっている事です!。破れた運動靴、片袖の無いシャツ、ズボンの裾を引きずって泥まみれで歩いている人・・・。そして輝かしきはもう一つ、「自分は何も知らない」と自覚している事です。殆どキリスト様の世界ですね・・・。私みたいに、ピッカピカの登山ファッションに身を固めているのは、まぁー、何と申しましょうか・・・。(第四幕終わり)

知らない木があれば、その枝をたおり、おじいさんの所に行き、教えてもらいました。そんなある時、おじいさんが居ないのです。次の週も、その次の週もいないのです。雨がシトシト降る時期だったろうと思います。そしてカッカと照る夏が来、それもようやく衰えを見せ始めた頃、「市境広場」から横浜側に4キロ程離れた「大谷戸広場」という場所で、そのおじいさんを「発見」しました。「おじいちゃ~ん。げ~んき~」。私は嬉しくてたまりませんでした。走り寄り、訳を聞いて、返ってくる言葉は意外でした。「あそこでな~、篭を作って、夜になったれば、置いて帰った。朝に来て見れば、ハー、盗まれていた」、「厭になって、ここへ来た」と言うのです。私は呆れました。道端に置いて帰れば、盗まれるのは当たり前。この人は何と「善人」かと。(いえ、正直に申しますならば、この人は「智恵遅れ?」ではないかと思いました)。頭の中に、人を疑う、と言う回路が欠落しているのです。
 
でも不思議。それから私は毎週、大谷戸広場に立ち寄るようになりました。そして私が現れると、その度、おじいさんはニコニコしてくれました。私はリュックを探り、コーヒーを入れ、緑茶を出して、一緒に飲みました。昼の時間に当った時にはお茶を差し入れ、私は少し離れて食事をとりました。遠慮したのです。そうこうしている内に、おじいさんも私と一緒に弁当を広げてくれるようになりました。でもその時、その瞬間、顔と体が火を吹いたかと思いました。おじいさんの弁当はタッパウェアに、ご飯を詰めるだけ詰め、その上に細かく刻んだ沢庵を、まぶしただけの物でした。私はこの時ほど、自分の弁当を恥ずかしいと思った事はありませんでした。(第五幕終わり)

おじいさんと一緒にいるのが楽しくて、私も一緒に篭を編み始めました。もう、お分かりでしょう。お送りさせて頂いた篭はこの時の物です。おじいさんの事も少しずつ分かりました。名前は加藤、生まれは佐渡。関西訛りはこのせい。旅が好きで、東北地方から鹿児島までの、日雇い人夫の若い時代。特にブナ帯の事が詳しいようでした。住まいは大船。電話はかくかく。円海山迄片道10キロも、毎日往復の健脚、74歳。また、この篭作りのおじいさんは結構モテるのです。色んな人が声をかけ、話をしていきます。その姿を写真に撮る人も、弟子入り志願の人もいました。ほほえましく思っていたのですが、実はこれが、おどろおどろしい場面の幕開けだったとは、露ほども知りませんでした。(第六幕終わり)
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秋も半ばになりました。いつものように行ったら、おじいさんはしょんぼりしています。また盗まれたのです。今回は森の中の、草むらに隠してあったのに、掘り出すように無くなったのです。それも篭だけではなく蔓までも。声をかけた人たちは、実は、様子を探りに来た人だったのです。それが証拠に、それまでは挨拶をして通った人が、次からは向こうを向いて、足早に去る。おじいさんには誰が盗んだか迄、分かるのです。私は気持ちが悪くなってきました。500円の為に、74のおじいさんのする事を。(・・・申し訳ありません。奥さんも気持ち悪くなってきたでしょうね・・・)。話はまだ続きます。次の週です!。私の顔を見るなり、「今日逢えて良かった。明日から来ない」と言います。眼には恐怖の色が浮かんでいます。小さな体は小リスのように震えています。服のあちこちに泥が付いています。恫喝され暴行されたと言うのです。冒頭で円海山は自然保護地区に指定されていると申しました。従って一木一草たりとも採ってはいけないのです。それで、蔓を採り、篭を売る極悪人を、天に代わって成敗する正義の味方が現れたのです。その名は志村と云うそうです。私は狂人を見る思いがしました。(第七幕終わり)

それから数日、仕事から帰ったら、台所から「加藤さんという人から電話があったわよー」、「日曜日、太平山で待つってー」、「加藤さんって、だ~れ~」。そして迎えた日曜の早朝、西の空、円海山を見上げた人は見たでしょうか?、その尾根の樹間を、朝もやに透けて走る、黒いマシラの影を。私は、一匹のケダモノと化して、南に走りました・・・。気持ちが一致するというのはこの事でしょうか。私が薮の中から太平山の広場に足を踏み入れるのと、おじいさんがリュックの肩紐に両手を添えて、その姿を現すのが同時でした。お互い、時間は何も言っていないのに・・・。(私はただひたすら、日の出から日の入り迄、待つつもりでした)。敷物を広げ、お茶を入れます。今は庭にテントを張って、篭を作っているとか。大工の友達が、横須賀で篭をさばいてくれるとか。そして私に「これ、やる」と言って篭を出しました。一目見て、おじいさんの作った最高の物である事が分かりました。取っ手の所に竹の葉の飾りが織り込んでありました・・・。おじいさんの目は、三浦半島の、低く折り重なる山々の峰を、その山ぎわの輝きを追っています。「ムカスナ(昔な)・・・、ワケコロ(若い頃)、グンタイヌ(軍隊に)、スガンスタ(志願した)・・・。旅がスクデナ(好きでな)・・・、海軍サ行けば、色んなトコ(所)行けるとオモタ(思うた)・・・」。いきなり何を言い出すのか、と見返しました。「じゃが、頭が悪うてなあ、陸軍へ回さった」。「右向け右、と言われて、一人だけ左を向いとるもんがおった。それがわしじゃった」。「はぁー、なぐられに行ったようなもんじゃった」。私はだんだん、おじいちゃんの言っている事が分かってきました。おじいちゃんは「さよなら」が言えないのです。それで、その場を埋める為、昔の話をしだしたのです。それが分かったとたん、私の胸には、土砂降りの雨が降り出し、その雨音にかき消され、おじいちゃんの言葉は何一つ、耳に入りませんでした。耳がワンワン鳴りました。(第八幕終わり)

お茶の後・・・、重い腰をあげました。私の知っているけもの道を抜け、私だけが知っている消えた道をかき分けて、「鎌倉建長寺」に向かいました。この時の、楽しかった事、嬉しかった事。天にも昇る心地、雲をも踏む思い。世界の恋人も、かくやあらん。楽しい、楽しい、二人だけの道ゆきでした・・・。「おじいちゃん、あれなぁに」。「葉っぱが傘のようじゃから、ウルシじゃろう」。「おじいちゃん、これなぁに」。「ほう、珍しい。クルミじゃな」。突然!、おじいさんが「アッ、サルナシだ!。ちょっと待って」。私には見えません。サルナシの蔓は地表を這うのです。従って地上にサルナシがあれば、その十倍の蔓があるのです。(・・・海の漁師を思い浮かべてください。漁師は漁場に漕ぎ出し、網を投げるでしょう。その手元からは円錐状の網が、海面に沈む筈です・・・)。おじいさんが地面の一点をにらみ、「むんず」とつかみ、サルナシの根を「バリバリッ」、頭上高く引き上げました。その時、その手元から、漁師の網のように、半円錐状のサルナシの根の網が、「現出」したのです。呆然自失・・・。この人は地面の中が見えるのです!。最後まで、教えてくれたおじいさんでした。(第九幕終わり)

遂に建長寺の階段に着きました。私は右に、おじいさんは左に。けれども二人とも動きません。「もう会えないの?」、「・・・」、「・・・」、「アンタが、イツばん、ヤサスかった」。その一言で、私は逃げるように走りました。「半僧坊」の長い階段を駆け上がり、森の中へと逃げ込みました。山も木も足元も、見えません。鎌倉山が泣いていました。大木を抱いて、泣きました。(第十幕終章)

私が丹沢に現れたのは次の週でした。円海山鎌倉山も見たくありませんでした。初恋に破れ、胸にポッカリと穴があいた少年のように、傷心の旅に出たのです。「どうなってもいい」と思いました。「表尾根」は「二の塔」から下った所でしたか、私が「あっ、サルナシだ!」と素っ頓狂な声を挙げたのは「あっ、おじいちゃんだ!」と同義でした。すかさず奥さんが「採って。私、かご作る」。「サルナシ→おじいちゃん→かご」が、電撃のように私の体を貫きました。同時に、私の大好きなおじいちゃんを、優しくかばって下さったと感じたのです。私が奥様や皆様に逢えたのは良い事でした。私が丹沢・塔の岳で失敗したのは良い事でした。水分補給、体温調節など、失敗したから、真剣になり、失敗したから、次の準備に必死となり、円海山の悲しみを克服する事ができました。(エピローグ)

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敬具