ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

宗教、瞑想、芸術

だんだん形を成して来たが、まだ言葉には遠い・・・
宗教の根幹の話であり、恐らくそれは一つなのだろうが、今の私は便宜的に二つに数えている

一つは宇宙の意思、とでも言うべきものだ
何故人間は存在しているのか、そもそも宇宙は何故存在しているのか、と言う問いだ
とても答の出るものではなく、存在の意志、宇宙の意思、としか思えない世界なのだ
言葉足らずの私だが、五木寛之氏にははっきりした言及があり、氏も信じているので、詳しくは氏の著作を

この方面に指向性が強いのは、キリスト教
総ては神の思し召しだし、天地創造も神だ
仏教は、無い訳ではないが、下記の瞑想に内包されている様に思われる
神道では、畏敬する自然がその役割を担っているのだろうが、極めて浅い

二つ目は、瞑想だ
キリスト教では、この方面は薄い
修道院で垣間見られるが、付随的だ
仏教では、ブッダに強力な指向性がある
これに比べれば、宇宙の意志は、瞑想からの演繹物、と云う雰囲気が漂う
大乗では、仏教をインド周辺民族に適合させるため諸要素を多く取り込み、その分瞑想は埋もれたが、引き継がれてはいる
念仏であり、座禅であり、題目であり、護摩行だ
既に瞑想と云う言葉が使われていない分、ぼやけてはいる

さてこの瞑想は小脳の行為なのだが、その小脳に訴える働きを為すのが、上述の座禅等々の他に、音楽や読経、絵画や掛軸、彫刻や仏像、荒行や修行がある
感動を伴い、小脳に快感と刺激を呼ぶ働きをしている

古代においては、芸術と宗教は不可分だったのではないだろうか?
芸術行為が即、宗教だったのではないだろうか?
芸術は、宗教から分離したのではないだろうか?
因みに現在、宗教から完全に分離独立したのは良かったが、その為方向を失い、盲滅法状態と、私には見える

さて、これを思い出させる事件が、去年起きた、ボブ・ディラン
ノーベル賞が決まったのに、当人は雲隠れした
授賞式にはメッセージを送り、当人は出席しなかった
そのメッセージで、芸術は感動だ、と言っている
感動は、小脳の本性、小脳の快感だと言っているのだ
ボブ・ディランの言う事、ボブ・ディランの心性、同感の念を禁じ得ない