ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

消された縄文、丹後王国

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割りと最近アップした記事「アイヌと縄文と蘇我氏」では、人類の「出アフリカ」から縄文人誕生への過程を試みました
出アフリカは、数万年〜数十万年に亘って波状的に発生し、ヨーロッパやアジアに広がります

この波は大きく三度有った、と思われます
第一波は抱合語語族と言われ、その言語は最下尾の語が上の語をまとめて受けとめる、と言う構造を持ちます
ドキッとしませんか?、日本語がそうなのです
「見渡せば花も紅葉も無かりけり、浦のとまやの秋の夕暮れ」
この歌は体言止めと言われ、最下尾の「夕暮れが」上の言葉全部を引き受け包み上げています
そして我々日本人はこの言い方に、奥底から共感し落ち着くのです

この抱合語語族は次に現れた第ニ波の膠着語語族、別名ウラルアルタイ語族に追われ、シベリア、日本、太平洋島嶼国、インドからシナの少数民、そしてアラスカ経由で南北アメリカ原住民となっていきました
日本人とアメリカインディアンのDNA、或いは日本語とタミル語の身体語が、酷似しているのはこの為です

さてウラルアルタイを故地とする膠着語語族は、更にその後現れた第三波の屈折語語族、別名インドアーリア語族に追われ、モンゴルや満州や朝鮮に移動し分散し、アジア人となりました
一部はマジャール語、トルコ語フィンランド語、バスク語としてヨーロッパに残存しています
アフリカに蓋をする地勢のヨーロッパ、イラン、インドの言葉が屈折語なのは、第三波が最後だったからです

さてその最初の新人類である抱合語語族が、後続の屈折語語族や膠着語語族に追われて辿り着いた先の一つが日本列島であり、その住民が縄文人でありアイヌ人となりました
両者の違いは、背後から迫り来る膠着語文化を、受け入れたのが縄文人、拒絶したのがアイヌ人です
別の言い方をすれば、日本古代を考える時、縄文を遡る遺跡は発掘されず、「縄文人が最初から居た」と考えるしか無いからです
その縄文人のルーツは、その言葉が抱合語である故に、その語族に求める他無いのです

その後の数万年の沈黙を経て、突然!?、現れるのが、日本書紀に記される出雲国です
その出雲を征服して三世紀に誕生したのが大和政権だとの趣旨で、遥か下った七世紀に、四百年も前の事を思い出して綴られたのが日本書紀です
これを書いたのは藤原不比等であり、当然藤原史観であり、藤原正当化のストーリーで貫かれています
その歪曲の度合いをあばき、真実の程を垣間見ようとしたのが、本ブログの初めにアップした「出雲神話は本当です」の記事でした
ただ、出雲を否定して大和が生まれたと云うのは、この意味に限れば、正しいと思っています

さてその中間、つまり列島に辿り着いた抱合語語族が、出雲国建国に至る迄の中間は、縄文時代と言い習わされます
その最初から最後への飛躍は大きい物がある訳ですが、これを埋める説明がなく、一っ飛であり、繋がらないのです
縄文時代にズームインすれば、何が見え、なぜ出雲国が誕生し、大和政権誕生に繋がったのか、それを私は知りたいのです

これから数次に亘り、縄文と、そこにあった日本海王国に分け入りたいと思います
現在の言葉、風習、考え方など、ゾクゾクするほどの共通点、そうだったのか感、満載の物語が展開します

[竪穴式住居、狩猟採集、丸木舟]
竪穴式住居や狩猟採集や丸木舟は、学校で教える縄文ですが、私には不思議でした、そんな生活、何が楽しいのだろうと
私の脳細胞が反応し始めたのは、各地の遺跡から黒曜石やサヌカイトが出ると知ってからです
これらの産地は、四国や伊豆諸島など限られています
三内丸山の青年が一人で、伊豆大島へ旅立つ筈はありません
これは通商ルートがあった事を意味し、ここに学校が教える狩猟採集の縄文イメージは崩壊します
そして縄文人の、生活を便利に楽しくとの思い、今日の我々と何ら変わらないのを知るのです

通商としての陸路は当然あったでしょうが、欠点は遅く少ない事でしょう
物量は一つの村に溢れて始めて、次の村に移ります
その点海路は、情報と同時的なスピードに加え、数と量が捌けます
つまり船です
船では海岸の村だけだと思うでしょうが、これに川を加えれば、一気に日本中が網羅されます

この船、もう一つ学校が教えた無知があります、丸木舟です
子供の頃ひと夏掛けて、ドラム缶を金鋸で縦割りにし、バスタブの様な船を作りました
水に浮かべたら、丸いからクルリと回転し、十メートルも行かず転覆します
もう恐怖で、海どころではありませんでした
海で転覆しない為には、西洋の竜骨船か縄文遺跡で見つかる平底船になります
その底板は、鉄も鋸も斧もない時どうやって作るのでしょう
丸太の目を読み、その目に沿って石の楔を沢山打ち込み、叩き割るのです
こうして得た分厚い底板に、丸木舟を縦に割った片方を舷側とし防波板として両側に当てるのです
さてこの平底船、今も漁村や海水浴場で使われ、使わない時は岡に引き上げられ、何の進歩もしていません
中国のジャンク船も、構造は同じです
(私が教科書で受けた違和感、ここではっきり分かります、縄文人を最初から馬鹿だと思っているのです
丸木舟は駄目と子供でも分かるのに、本しか読まない学者は平気で、縄文人は丸木舟と書くのです
利便と利益を求め、工夫と死力を尽くす縄文人、我らとどこが違うのでしょうか)

[因幡の八上姫、越の奴奈川姫]
さてこの船、この時代まだ帆は無く、手漕ぎです
恐る恐る海岸線を舐めるように進み、一体一日何キロ進むでしょうか?
潮の向きもありますから、十キロ〜三十キロでしょうか?
何処に寝るのでしょうか?
長旅の場合、食料はどうするのでしょうか?
商いの荷を積み、襲われないのでしょうか?

書紀は不思議と驚きに溢れていますがその一つ、大国主命は、因幡の八上姫や越の奴奈川姫と結婚しています
何故、唐突に、あんなに遠い所の姫と・・・
と思うのですが、これで海岸線と通商路の安全が確保される事に気が付けば、頭を痛打の衝撃に眩むのです

[倭王、武]
また、時代は下り五世紀の宋書に拠れば、倭王武が述べています
我が祖先は、東は毛人五十五カ国、西は衆夷の六十六カ国、北は九十五カ国を平定、と
どこにそんな沢山の国がと、呆れる数ですが、日本海の東の村々(都市国家)五十五カ国、日本海の西の村々(都市国家)六十六カ国、北の朝鮮半島の村々(都市国家)九十五カ国、と思えば俄然その数、現実味を帯びてきます
平定と言っていますが、通商関係に参加した日本海の村々(都市国家)と解すれば、深く納得するのです
さて、倭王の讃珍済興武が誰か、書紀は沈黙し、学者は分裂していますが、理由があります
後述しますが、この五王は大和の王ではないのです
これを見落とすから、議論は発散するのです
大和が眠っている時、足繁く朝貢していた倭の五王は、日本海の丹後の王だったのです
この時代まで下れば、村々(都市国家)との通商は、婚姻ではなく、朝貢的契約関係に変化している事も分かります

[縄文と弥生]
縄文人は教科書に云う、竪穴式住居と狩猟採集の民ではありません、通商と交易の民です
その交易は陸より、海と川がメインです
海と川との交点、即ち河口は当然交通の要衝となり人が集まり賑わいます
現在の大きな都市が大きい川の河口にあるのは、これが理由であり、起源は縄文に遡るのです

そして日本列島沿岸各所は元より、朝鮮半島南部で平底船の行き交う光景が見られた筈です
大まかには、北九州、日本海沿岸、薩摩、大和、尾張、関東などでしょう

その一つの北九州ですが、その平野には、弥生人が割り込んで稲作を始め邪馬台国を建国し、海岸部と島嶼部には、縄文人の宗像海人族が住み分けて、ダブル構造を成していました
ちなみにこの北九州がいい例ですが、縄文と弥生、或る年月を期してバトンタッチしたのではありません
桜前線の様に列島を北上したのでもありません
稲作は低地湿地を求めて東漸しますが、隣の山や森や海岸には縄文人が住んでいたのです
列島を斑模様に住み分け、縄文と弥生は共存拮抗していたと思った方が近いでしょう

[宗像氏]
縄文人を順次見て行きますが、一つ注意が必要です、縄文海進の知識です
今より数〜十数メートル海が高く、海岸線が数百〜数千メートルと陸に迫り、平野は少なく、今の多くの半島は島だったと言う事です
貝塚が内陸で見つかるのも、これが理由です

市杵島姫(いちきしまひめ)を祀る宗像大社辺津宮も、昔は島でした
陸との間の狭い水路は、日に二回の潮の上下で船が集散し、東に赤間水路、西に福間水路を分ける交通と通商の要の島に市が立ち、賑わったのが宗像大社辺津宮だったのです
だから元は宗教施設などではなく、実利を求めて人の集まる市場だったのです
神社と聞くと神聖な場所と身構えますが、コテコテの利益と実利、欲と得の交易所だったのです
後世でも神社には市が立ちますが、神社に市が立つのではなく、市に神社が立ったのです
何度も言いますが、欲・得・好奇心は縄文人も現代人も同じなのです

さてそこ迄は他の縄文地域の交易と大差はなかったのですが、鉄の出現で宗像は変貌します
鉄を産する加羅伽耶、そこは外洋航路です
最早海岸線を舐めるのとは、異質な技量が必要です
湍津姫(たぎつひめ)が祀られる宗像大島の中津宮、田心姫(たごりひめ)を祀る沖ノ島沖津宮、この二つの島を、宗像族はどれだけ感謝した事でしょう
かくしてこの二島の延長に対岸の加羅伽耶、現在の釜山への航路が拓かれたのです
言う迄もありませんが、盤石の壱岐対馬ルートは、久しく弥生人邪馬台国に抑えられています
縄文人が初めて、自前の貿易ルートを手中にしたと言う事です
因幡の白兎はこの過程で生まれた神話であり、私の出雲神話は本当です、に記しました
沖ノ島は、海の正倉院と言われるまでに大発展したばかりでなく、宗像氏は列島各地の縄文人の上に立つステータスを得ます
加羅伽耶への海のスパンは、他の縄文水夫、一日三十キロの技量と隔絶屹立したのです

[信濃]
また支族の安曇氏は、その名を信濃の山奥に残しています
つまり、信濃川を遡り、新潟から安曇野に至る広範な信濃を、建設建国したのです
海に川を加えれば、日本を網羅すると言いましたが、これが現実の物となったのです
この様な例は、他にもあった筈です

[瀬戸内]
一つ、瀬戸内が解せないのです
瀬戸内こそが最も海上交通が盛ん、と思いがちなのですが、神社が無いのです
後述しますが日本海沿岸には、手漕ぎ船の一日里程である三十キロ毎に神社があります
それが瀬戸内には無いのです
神社が無ければ、市が無く、市が無ければ、船も人も集まらなかった事になります

逆に最奥の河内に、住吉大社があり、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命の三神が祀られています、勿論宗像神です
これは何を、意味するのでしょうか?
瀬戸内は自身で海路を開拓できず、信濃の様によそ者の宗像氏によって拓かれたから、その神社が在るのだ、としか考えられないのです
そうなると瀬戸内の発展は、他の縄文地域に比べ、ワンクッション遅れる事になります
これが生命線の大和と河内は、オクテの縄文地域だった事になります

では何故開拓できず、何故海路が生まれなかったのでしょう?
瀬戸内は多島海で知られますが、暗礁が多いのと、潮が複雑なのとで、これが船運を遮ったのでは、と
手漕ぎは、潮にかないません
暗礁を開削するに多大な労力と年月を要し、また上層中層底層の潮を探索した労苦の記憶が、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命ではないかと、私は思っています
(学者はこれを、服従儀礼だと言います
スミマセン、スミマセン、スミマセンと謝るイメージからの連想です
それを言って、何が分かるのでしょう?)

[伊勢]
ちなみに瀬戸内を超えて紀伊半島を廻り、伊勢に迄宗像神が分布します
神武天皇を瀬戸内に案内した猿田彦のその神社、そこの祭神の底度久御魂・都夫多都御魂・阿和佐久御魂の三神は住吉と酷似し、宗像神と見るべきでしょう

[河内、大和]
メインの日本海沿岸に移る前に、大和を片付けましょう
オクテですが、後に大発展する土地です
記紀で感じる違和感の一つに、大和は豊葦原の瑞穂の国、と言うのがあります
葦は水草ですし、瑞穂は水と穂でしょうが、特別に水が多いと言うほどでも・・・、と言う疑問がずうっと残りました

答えは縄文海進でした
先ず大阪ですが、河内平野は存在しませんでした
海の底だったのです
南から上町台地が伸びて、北側の千里丘陵に迫っていました
その内側は巨大な河内湖で、そこに淀川と大和川が注ぐ、汽水湖だったのです
その水が、上町台地千里丘陵の間の僅かな隙間から、潮に合わせて滝のように河内湾に落ちます
その浪が速い所から、なみはやと言われ、なにわ(浪速)が生まれ、訛ってなんば(難波)が生まれます

次に大和盆地ですが、これもその南に巨大な湖、大和湖がありました
そこから流れ出した大和川が、信貴山葛城山の間を抜け、河内湖に注いでいました
これで初めて、豊葦原の瑞穂の国が納得できます
そうするとここでの海路は大和川を上下する、大和の穀物と河内の魚の、小さな交易でしかありえません
この時期、瀬戸内は開削されていませんから、魏に朝貢どころか、外洋船の知識や技術も無かった筈です
邪馬台国畿内説は、空論と言えます
ちなみに、河内湖と大和湖を埋めたのは、海退と、川が運ぶ土砂ともう一つ、後の秦氏の渡来と技術力を待たねばなりませんでした
秦氏は技術技術と云われますが、何をしたのか誰も言わないのでフラストレーションが溜まります
具体的には、河内と大和に広大な田畑を干拓し造成し、列島最大の人口キャパシティを用意したと言う事です

[尾張、坂東、薩摩]
この三つの地域も、河内大和と同じくその中での交易はあったと思われますが、他の地域と結んだ通商は少ないように思われます
黒潮が強過ぎるのと、房総半島、三浦半島伊豆半島など、手漕船にとっては迂回路が多過ぎたのかなと思われます

[鉄の海]
さて、豊かな日本海に行きましょう
これが豊かなのは、理由があります
先ず、九州から出羽や陸奥に迄繫がっている事です
倭王武の証言の通りです
次に、繋がった海岸線から川を遡り毛細血管の様に、列島が開発された事です、安曇野の様に
三つ目に、加羅伽耶から宗像を経ての、鉄の登場と流通です

これが為に、日本海側が鉄の生産地、つまり精錬地や加工地となり、他方の太平洋側が鉄の消費地と、性格を分けて行きます
そして迎えた三世紀、この生産地と消費地の力学が逆転します
その混乱の時代の断片と残骸を、下った七世紀に恣意的に抜き取って盛った他人丼のような書物が日本書紀と、私は思っています
この過程で、抹殺されて消えたのが丹後王国であり、名は残るも無残な形に矮小化されたのが出雲王国です
その丹後と出雲を、これから復元してみたいのです

さて海路を行く手漕ぎ平底船は、その一日の里程、十〜三十キロ毎に津が必要です
その津は岩場や深い港ではなく、夜は平底船を引き揚げられる砂浜で、波風を避ける入江や河口であれば最良です
船団を組んでの長旅ですから、大勢が休める寝食の接待所が必要です
その地には市が立ち、神社が残るでしょうし、精錬や鍛冶場の遺跡があるかもしれません
これらを辿って行く事になります、しかもちょと内陸側です

[長門、石見]
宗像三神を経た鉄は、穴門(関門海峡)に向かいます
下関には鍛冶場跡の綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡と、 戦士の墓の土井ヶ浜遺跡があり、長門には堀田遺跡が、石見には温泉津(ゆのつ)の龍御前(たつのごぜん)神社があります

[出雲、伯耆因幡]
出雲には出雲大社荒神谷遺跡、伯耆の大山町には妻木晩田(むきばんだ)遺跡など、最大級の遺跡の数々が有り、誰もが知る記紀の三分の一を占める、大舞台です
出雲は、加羅伽耶の粗鋼の精錬製鉄工場であり、東と西の中継貿易港であり、日本海航路最大の中心地だったと知れば、以下の疑問はたちどころに解決します

須佐之男命は最初朝鮮に行き、こんな木の無い所には住みたくないと、出雲に至り木を植えます
これは当時の時勢そのままです
この時期朝鮮半島は、既に禿山となっています
鉄一トン、山一つです
もう一つ、須佐之男命は朝鮮帰りと言っています
書記の文脈からは、唐突感を感じますが、当時の常識だった筈です
鉄を仕切り差配する出雲建国の王が、朝鮮を知らなければモグリです
と云うかこの時期、日本と朝鮮はズブズブの関係だった筈です

恐ろしい八俣の大蛇は、お伽噺でしょうか?
目は真赤なほおずきのようで、胴体には苔が蒸し杉や檜が生え、腹を見れば血が流れ出し血膿の如し、と
これは山会いと谷戸に散在する製鉄所ではないでしょうか、夜も落ちない鍛冶場の火はチロチロと漏れ光り、その様子はこの形容にピッタリです

因幡の白兎は、メルヒェンでしょうか?
鰐を並べさせその背を飛んで数え、後一つの所で騙しがばれて赤裸にされます
その白兎は、沖ノ島出身を名乗っています
つまり白兎の宗像氏は、邪馬台国麾下の壱岐対馬の島の並びを鰐に例え、この調略を試み露見したのです
出雲はこれを助けて共に組み、因幡の八上姫と結婚し、これにより加羅伽耶から宗像氏を経て日本海への貿易ルートが開通したのです
メルヒェンどころか当時の世界を股にかけた、政治と経済と貿易ルートを大転換したダイナミズムです

その後更に、大国主命は越の沼河姫とも結婚しています
何故に、唐突に、こんな遠い所の姫と、と思います
答えは簡単です、八上姫で因幡迄の海路が、沼河姫で越後迄の海路が、確保されたのです
もう一つ、国譲りを迫られた時、大国主命は美保の岬にいる息子の事代主の神に聞いてくれ、と言っています
何故、若狭の美保の松原に居るのでしょうか?
この大出雲製鉄商事株式会社の、出雲本社には大国主命が社長、若狭の美保岬には息子の事代主神が支社長、因幡と越後には営業所を置いて、港の接待所と人夫、市場の運営、海路警備など、一言で言えば制海権を維持したのです
その事務所が、神社だったのです
その神社を宗教と思い、頭が竪穴式住居と狩猟採集に浸っている限り、神武も崇神も大和政権も生まれる素地はありません
二言めに、渡来人帰化人と叫ぶ事になります

出雲風土記の国曳き神話は、子供をあやす荒唐無稽な寝物語でしょうか?
この時期は縄文海進で、出雲半島は当時、島だったのです
陸との間の狭い水路は、波風を避ける日本海最高の良港であり、これこそが出雲の立地だったのです
また書記は出雲をして葦原中つ国と言い、水が豊かな国と、ことほぎ祝うのもこれが由縁です
ところが海退と、斐伊川の土砂で繋がってしまい、島が半島になりました
これの記憶が、国曳き神話です
同時に天然の良港が、岩場だらけの長い半島を遠回りする、危険な悪港に一変しました
出雲の衰退が始まったのです

出雲の国譲りは、大和の武力よりは、こちらの方が大きかったのではないでしょうか?
もう一つ、出雲のハンディは近くに大消費地が無かった事でしょう
山が迫り小さな扇状地の広島は当時、縄文海進で海の底でした
事情が分かって来れば、武力制圧は出雲より、次に述べる但馬丹後若狭の事件であり、丹後王国の存在を抹殺したい事情が藤原氏の大和側にあった為、これを出雲に差し替えたのが日本書紀ではないかと思えて来るのです
その嘘を塗り固める為に、わざとあんな立派な出雲大社を作ったのでは、と思うのです
他の日本海側の神社は、寒風に打ち破れ神すさびます

(話しは少し逸れます)
因幡の素兎は、出雲の黎明を高らかに宣言する神話ですが、この話は古事記に現れ、日本書紀にはありません
藤原政権により何十年も差し止められ検閲を受け続けた出雲風土記は、出雲終末の挽歌を奏でる国曳き神話を当てられたのです
この違い、最初は気が付きませんでした
つまり古事記は出雲を誇り、日本書紀は出雲が疎ましいのです
日本書紀が、丹後出身の蘇我氏を暗殺した藤原氏によって書かれた、との疑いはここに生まれ、もう一つの高御産巣日神藤原不比等の相似性と併せて、確信となるのです

[但馬、丹後、若狭]
荒神谷遺跡の発見以後は、出雲神話絵空事と言う人は居なくなりました
ただその出雲より大きかった筈の丹後が、書紀に書かれていないのが不思議です
チラと言いましたが出雲には、消費地が無いのと、港が埋まったのとで、自然消滅状態だったと思うのです
一方の丹後は、大和、河内、山城、播磨、吉備、尾張と、背後に大消費地を抱えています
その遺跡も数珠繋がりに、密集しています
ところがこれに対応する、書記の記載が無いのです

先ず丹波・但馬・丹後ですが、最初は丹波一つでした
奈良時代律令制で、三分されました
朝鮮の文献にタバナと出現するのは、最初の丹波です
順に見て行きましょう
但馬の豊岡市内陸の出石に、袴狭(はかざ)遺跡があり、手漕ぎ船の船団そのままに描写する、線刻画があります
縄文海進で現豊岡市全体が汽水湖に沈み、内陸側の出石に達し、入口は狭く、良港でした

これに相当する記事はすぐ見付かります、天日槍です
渡来人で、天皇に土地を与えようと言われたが、自分の土地は自分で探すと豪語し、但馬に行ったと
さてこの人物、朝鮮の処伝に新羅王として現れ、海の向こうのタバナ国から、と言っています
また自ら、彼地の東北千里、と具体的です
この時期起点は宗像ですから、その北東千里の丹後は、理に叶います
返って書紀の渡来人との記載に、疑念を孕みます
その人物も、その土地も触れたくないと見えるのです

もう一つ、播磨風土記です
天日槍は播磨に現れ大国主命に、あなたは大きな国の主なのだから、自分に土地をくれと頼みます
大国主命は海を指差しあそこならと言います
天日槍は海に剣を立てて掻き回し、波の上に座ったと
その海には淡路島があり、そこには精錬所の遺跡があって、100年程続いた事が分かっています
そこで鉄を作り、河内大和の消費地に運んだのです
驚き地図を見れば、この事件の舞台は播磨国揖保川なのですが、現在の地図でも揖保川上流の僅か1kmを峠で越えれば但馬に入り、大屋川から円山川そして出石へと繋がるのです
この時期、船が山を越えるのは常識です
各地に船越の地名が残ります
これに関連して、この時期瀬戸内は繋がっていなかった事が分かります
繋がっていないから、山を越えたのです

さてこのルートは100年程で放棄されます
もっと良いルート、丹後・若狭・気比大社・琵琶湖・淀川ルートが開拓されたのです
ここから山城・河内・大和・播磨・吉備・尾張の、畿内の大消費地が初めて繋がったのです
このルートのネックは、丹後半島でした
半島の外側は岩場と絶壁、手漕ぎ船が休む浜は皆無で、長野正孝氏に拠ればその里程は7日です
とても手漕ぎで迂回できる半島では無かったのです
逆に丹後半島の付け根は縄文海進で、西から朝茂川、東から野田川が迫り、半島はちぎれちぎれの皮一枚状態でした
船は・・・、また山を越えたのです

(話は逸れますが)
神社の神輿の起源は、宝船の山越え、船越しでは無いでしょうか
宝満載の船を、先ずは川を曳き、最後は峠を担ぎます
この時の水夫と若衆、腿の筋肉、肩の筋肉、声を張り上げ、掛け声勇ましく、その連帯感と達成感、神輿以外にありません
これを遠巻く乙女たち、力水を掛けて囃します
男の歓び、これに過ぐる物はありません
これから10ヶ月、多くの子が生まれた事でしょう
また神輿には、曳く神輿と、担ぐ御輿があります
海の近くの神社の神輿、最後は海に入ります
何から何まで、ピッタリではありませんか

詳しく見てみましょう
丹後半島の西は久美浜湾の、函石浜遺跡、浜詰遺跡
網野町の、銚子山古墳
朝茂川河口の弥栄町から中流峰山町に至る、扇谷遺跡、多久神社、遠所遺跡
朝茂川上流の大宮町の、大宮売(おおみやめ)神社
そこから山を越え若狭湾は、阿蘇海と天の橋立の中央に、野田川河口の、大風呂古墳群
若狭湾を渡れば、敦賀の気比大社
まるで大製鉄コンビナート、大商業コンプレックス、鉄と交易のコングロマリットなのです

(結論の予感)
ハイ、西の大出雲「製鉄商事」株式会社と、東の大丹後「製鉄物産」株式会社、これが縄文の原風景なのです
この物産と商事が、商い人縄文の遺伝子を形作ったのであり、これこそが日本人のDNAだと主張するのが本稿です
これによってこそ、竪穴式住居や狩猟採集や稲作農耕民説で残る違和感が克服でき、また日本人や自身の奥底に潜む、自由への蛍火が納得できるのです
合せて、日本人に特有な天皇の、その起源と由縁も、文中文末にちりばめます

さて問題は、これに対応する書紀の記載です
無いのです!
このお陰で、豊かさのきっかけを掴んだ筈の大和、後に大発展する大和、その書紀は何故沈黙するのでしょう
貢献度ほぼゼロの出雲に書紀の三分の一を割愛して、何故丹後はゼロなのでしょう
理由は、丹後の王が蘇我氏だったからです
その蘇我氏鎌足が殺し、その子不比等が書紀を書いたからです

[縄文の大王、天皇のルーツ]
疑問に思った事はありませんか?
何故倭の五王が、容として解明できないのか
倭王武は、我が祖先は、東は毛人五十五カ国、西は衆夷の六十六カ国、北は九十五カ国を平定、と
この意味もうお分かりでしょう
こんな事、大和の王に出来る事では無いのです
と云うか、大和は王の生まれる土地柄ではありません、後発なのです
王は、既述の出雲や丹後の他は、吉備に物部氏尾張尾張氏、後は薩摩や関東や会津に王の雛形は有ったでしょうが、それらの王はその土地の王です
大和は、それらが寄り合いをする為に集まった公民館です
その場所として現実の物となったのが、大和の纒向であり、これは丹後と尾張の公民館でした
その噂を聞きつけ集まったのが、物部と出雲ですが、これは別のブログ記事、出雲神話は本当です、に譲りましょう

言いたいのは、天皇のルーツです
丹後の王と他の王とは、明確な一線があります
丹後は、五十五国、六十六国、九十五国に号令をかけて立った、と言う事です
号令と言っても、憎まれる税金や徴兵ではありません
これら連合国を統べて交易し、これらに鉄と食と富を分け与えたのです
それだけで無く、海から川を遡り土地を拓き、列島に毛細血管の様な新天地を、分け与えたのです
人々は神社を建てて丹後の神を奉り、どれだけ感謝したか分かりません
最初の収穫、即ち初穂を神に捧げるのは、どれ程の当然の上の当然か、計り知れません
ちなみにこの丹後の神が後日、出雲神としてすり替えられ習合されますが、恐らくは不比等の所作と、私は睨んでいます
私見によれば、天日槍、倭の五王神功皇后神武天皇応神天皇継体天皇は丹後の王であり、武内宿禰はその臣です

皇統が途絶えた時、大友金村が新天皇・継体を求めて、一直線に越に走ったのを、不思議に思いませんか?、何故でしょう?
天皇は丹後の王しか成れない、最も根本的な理由、それは日本海の王、丹後の事蹟、丹後の神様への感謝です
これが一万年経って、いまだに続く縄文の遺伝子です
網野善彦氏は中世を研究し、山の民を調べ、天皇のルーツに迫るも、成功しているとは言えません
私見では、山の民では無く、海の民だったのです

ついでにもう一つ、大伴氏です
何故天皇を探す役目、これを大伴金村即ち大伴氏が担うのでしょう?
丹後の大王には、その回りに伴をする者が、あまたあまたおりました
今の言葉なら執事、秘書、親衛隊、各種省庁でしょうか
これらあまたの伴を束ねる役職が、大伴なのです
その家柄が大伴氏なのです
だからその金村が、越の国に走ったのです
彼は当然の役目を果し、総てを知っていた筈です

その他、古代史の疑問、書紀の疑問の数々が目狂めく解き明かされます
何故天日槍の歩いた跡に、秦氏が居るのか
針間(播磨)と山城(の太秦)、ここは秦氏の本願地です
何故神功皇后が、角鹿(つぬが)の気比大社で軍旅を発したか、またやすやすと北九州宗像まで進軍するのか
何故応神天皇が、気比大社と名を交換したか
書紀は、全く別の国の王を、大和の皇統譜に勝手に紛れ込ませたのです

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは、角が生えた恐ろしい人と言う意味です
つまり般若の面のモデルです
天日槍でしょうか、応神天皇でしょうか
詮索してもあまり意味は無いように思われます
この丹後王国を差配した王は皆々、神より恐ろしい、神の上の神だったのです

この後は、私のブログ「出雲神話は本当です」に繋がりますが、一つ申し上げなければなりません
丹後は、滅びる運命にありました
縄文も終わりに近づき、鉄を媒介にして各地が結び付き始めたのです
丹後は日本海沿岸に、まとまりを形成します
弱点は沿岸を繋ぐ針金の様な形で、国土的地勢的に難がありました
他方畿内は土地が広く人口を擁し、鉄の消費地として存在感を高めます
同時に瀬戸内の海路開発と結果としての畿内の自立は、時間の問題になっています
また一方の北九州には、邪馬台国が跋扈しています
この三者間で、思いもよらぬ悪夢のような事件が勃発したのは、歴史の妙であり、人間の不思議です

大和の纒向に集まった縄文豪族から、瀬戸内の大豪族崇神が押されて天皇になりました
一方丹後王国最後の女王神功は、武内宿禰と共に軍旅を発し、邪馬台国を征討します
これで始めて日本が統一、誕生したのです
所がその余りある軍功を恐れた瀬戸内の崇神尾張日本武尊は、神功に追討軍を送ったのです
神功はその子応神と共に丹後を敗走し、越の奴奈川で殺されます
応神は抗戦するも破れ、諏訪大社に閉塞します
神功と武内宿禰の異父弟神武は、薩摩隼人に匿われ、天孫降臨の神話を携え、日向に亡命します
これが後日迎えられて、天皇になりました
流行り病と天変地異が表の理由ですが、本当の理由は、縄文を通底する丹後の神への感謝、その血筋蘇我氏への感謝、その頂点である天皇への敬慕だったでしょう
また近江三船が神と讃えたのは、崇神•神功•応神•神武だけですが、この四人こそが日本誕生の動乱と断末魔の立役者だったからです
これが、総てを知っていた近江三船の、後世への暗号でした

[エピローグ]
近江商人の三方良し、という言葉があります
売り手良し、買い手良し、世間良しです
その高い倫理観に頭が下がり、この気風は如何にして生まれたのか、不思議です

次にこの気風は、いつ生まれたのでしょうか
秀吉ですが、近江を任され現地採用した家臣は皆々、経理の才が立ったといいます
四国遠征、九州遠征、関東遠征など、その大軍を動かし、兵站を維持出来たのは、彼らの力量に依るものです
秀吉は商人を選んで、家来にしたのではありません
つまり近江は商人だけでなく、その素養は広範に、一般に浸透していたという事です
これが、第二の不思議です

近江一円の才となると、一朝一夕に形成されるものではありません
歴史が、しかも数世紀に及ぶ経済のうねりのような時代の裏付けが必要になります
それは、いつの時代でしょう
戦国時代は戦に明け暮れ、商いには逆風です
と言うか、高い倫理性とは相容れません
平安時代律令と言われますが、これは人を土地に縛る農奴化の事です
これが近江の、三つ目の不思議です

最後の四つ目の不思議、何故近江か、という疑問があります
これには答えが用意されています
交通の要衝、と
確かに琵琶湖の水運が、畿内尾張、越への通商の要となっています
ただこれは、立って見た地平の手前の景色を、形容しただけの答えです
その時目に入った景色を、叙述しただけのもので、取材、調査、思考の跡は、感じません
この理屈なら、日本は近江だらけになります

これらの答えは全部、「一言」で解決するのではないでしょうか
「丹後王国」です
丹後王国は、東は五十五カ国、西は六十六カ国、北は九十五カ国を束ね、鉄と富と分け与え、土地を拓いたのです

海岸線は勿論、河川をさかのぼりました
但馬の出石から大屋川円山川揖保川を経て、播磨、淡路島、河内を繋ぎます
越の気比大社から、琵琶湖、淀川、河内、大和、尾張に達します
(尾張海部は音で読んでかいふですが、丹後籠神社の海部は訓で読んであまべです
尾張も丹後王国が拓いたのです)
新潟から信濃川をさかのぼり、安曇野を拓き諏訪に達します
(諏訪大社建御名方神の、終の住処です)
神話で確認できるのはこれだけですが、東北の河川でも、同じ事が起きていた筈です

次の証拠は、これらの地にびっしりと貼り付いた、丹後神社です
と言うとびっくりなさるでしょう
びっしり貼り付いているのは、出雲神だよ、と
これは藤原不比等が、憎い蘇我氏とその背景の丹後を抹殺する為、祭神をすり替えた結果です
当然民衆は反発しますが、これを抑え込んだのが出雲大社建造、だと私は踏んでいます

もう一つ、不気味な証拠があります
近江商人と並ぶあきんど、大阪商人、伊勢商人です
そこには住吉大社猿田彦神社、つまり宗像神が有ります
丹後と肩を並べて共に組んだ、その宗像氏の、その神社が有るのです
北は丹後王国が拓き、宗像氏は南の瀬戸内と紀伊半島を拓いた構図が、浮かび上がり見て取れるのです

最初に戻ります
近江商人の高い倫理観、これこそが丹後王国の商いだったのでは、と思うのです
だからあんなに沢山の丹後神、つまり出雲神があるのでは、と
この感謝が、二千年の時を越えて、その末裔、つまり天皇への思慕では無いかと

さてその後、鉄の生産地日本海と、鉄の消費地畿内の力学が逆転し、生まれたのが大和政権です
これは当然、貿易通商路の逆転でもありました
この後は日本海航路は捨てられ、その神社はすさびました
僅かに残ったのが、琵琶湖の湖運、即ち近江商人だったのでは、と
その倫理観、これこそが丹後王国だった、と

[神武東征]
先ほど不気味と称した、住吉大社猿田彦神社に係わります
或は大阪商人と伊勢商人と言ってもいい
更には本文中では、瀬戸内は自身で航路を開拓できず、宗像氏により拓かれた、従って最奥の河内に住吉大社が在るのだ、と申しました

頭が痛打の衝撃に眩みませんか?
神武東征のコースと同じなのです
河内で破れ、紀伊半島を迂回します

更に神話には、神武を瀬戸内に案内する猿田彦が現れます
その唐突感と違和感、ずっと引っかかりました
しかもその神社が何故伊勢に在るのか、謎の上の謎でした

今はっきり分かります
丹後王国は日本海の、宗像氏は瀬戸内と紀伊水道の、制海権を掌握していたのです
丹後と大和の力学が逆転し、日本の天地が動転した時、日向で無力化した丹後の亡命政権である神武と、物部の間に手打ちが成り、宗像は物部に靡き、神武を案内したのです

余談ですが、神武の大和入りに反対したのは尾張日本武尊です
物部の手足となって、同族の丹後を騙し討ちにしてまで働いたのに裏切られたからです
その物部が、丹後の神武と手打ちをしたからです
この尾張日本武尊、神話では土蜘蛛と名を変え登場します
或は、兄宇迦斯(エウカシ)弟宇迦斯(オトウカシ)として登場します
他にも逸話が挿入されますが、弟が反対し兄が諌める構図は不変です
勿論、兄が物部、弟が尾張日本武尊です
神話には千に一つの嘘も、ありません