ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

起業、それは諦めない事

不思議だ
60才65才を過ぎて、性欲から開放される
そうすると世の中が、スケスケに見えてくる
最初、西洋医学が透けた
続いて、宗教も透けた
次いで、古代史が透けた
また、日本とは何か、自分とは何か、その心の置き場所が分かって来、安心立命を得た
そして今突然、起業や経営が見えて来たのだ
経済オンチ、経営コンプレックスの私には、思い残す事は無いと思うくらいの、嬉しい発見だった
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定年で会社から放り出された時、後ろを振り返ったら何も無かった
会社の足跡も、日本国の足跡も有るのに、自分の足跡だけが、無かった
惨めで、悔しかった
せめてこれから数歩の足跡だけでもと思い、田舎へ来た
掘っ立て小屋に住み、土を耕し、自炊した
その野菜を売る、100円ショップ、パラソルショップを開いた
好きなイタ飯を作り、カフェをやろうかとも思った
すぐ大変だと分かり、庭で焙煎した珈琲とケーキの店に縮小して、考え直そうとした
そんな鬱々としたある日突然、起業とは諦めない事だ、と閃いた
失敗するのは、諦めてやめるからだ、と
失敗のたび試行錯誤し、人と社会への摺り合わせを重ねて行けば、成功に近づく、と閃いた
岩佐大輝氏も言っている、トットとやってサッサと失敗すればいいんですよ、と
 
これはコミュニケーションでもある、社会への摺り合わせ、が発生するからだ
売る為には、人に喜んで貰わなければならない
それで初めて、商いが成立する
逆にコミュニケーションとは何か、初めて自分なりの答えだが、言えるようになった
そのコミュニケーション、難しいものである必要は無い
今日の天気、時候の挨拶から、始めれば良いのだ
 
もう一つ、これこそ教育では無いか、と閃いた
昔から私は、教育が分からなかった
分かるのは、破壊された士農工商、この身分制度の再生産ぐらいだろうか
各種学問や学校も、企業の奴隷を養成する下請け機関としか思えなかった
肯定的な意味では、切磋琢磨、競争原理が認められる
その方面での情報共有とスキルアップには、効果絶大だ
もう一つは、自分で考える事が出来るようになる、と言う事だろう
ただ思慮熟考だけ批判精神だけで、行動とリスクに飛び込む勇気は摘んで来た
それがこの起業で、思いもしない方向からの光が当たった
自立、とでも言うべきだろうか
自分の力、自分の嗜好を持って、社会の一角のそのまた一角のその歯車に、自分を噛ませる事に成功するかどうか
それを求めて、飽くなきトライアルを重ねるのは、醍醐の楽しみ、醍醐の喜びでは無いだろうか
ウル覚えだが、アメリカの小学校では、パンや物を作って売る授業があると聞いた
売れるかも知れない、売れないかも知れない
売れなければ、次はどう変えるか、これを繰り返すのだ
自立し自分で考える、その極致の人材が育つ
尚かつ、失敗とリスクに立ち向かう勇気が育つ
この教育、深く納得できる
 
さて、そこ迄考えたら、次に飛翔した
今迄は、自分の出来る事、やりたい事で社会に噛み合おうと考えた
これに、成功したとしよう
次は手伝って貰う人、これが必要になる
更には労働者に丸投げ、肩代わりして貰う段階に進む
又その次は、自分の出来ない事や分野でも、専門職を雇って行い、自分は方向だけ、つまり経営だけに特殊化する事が可能になる
金を産みさえすれば、この範囲は拡大して行く
この意味で、例えばスポーツビジネスも理解できる
私はスポーツに、興味が沸かない
人間が人工的に作ったルールで、勝ち負けを競って何の意味、何の生産が在るか、分からない
けれどもそれを喜び、お金を出す人が居れば、そこにビジネスも経営も、成り立つ
 
もう一つ、こんな現象が起きたのは、歴史上初めてでは無いだろうか
つまり、経営があったとしても、これが抽象化された事は、初めてでは無いだろうか
太古の人は食の為に耕し、武士は一所に命を懸けた
勿論太古より商人は居たが、その職は家や部族の世襲に近い
それらの行為は目的と不離不即であり、彼らの頭脳内では同一の事象だった
組織が大きくなれば、その中で経営は中枢化して行くのは分かるが、それは世襲され抽象化は起きていなかった
今我々は、不思議な時代を生きている