ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

出雲神話は本当です、これが分かれば日本が分かります

[プロローグ、Alienation]
日本の、田舎の、或いは農耕民族が作ったこの社会、曇った空のようにどんよりと、人を縛り、締め付けてきます
若い私は、これが嫌で堪らず、逃げ出しました
地の果て遠く、ヨーロッパ迄、逃げました
 
そこで発見したのは、個人主義に裏打ちされた自由の伝統でした
感動し、打ちのめされ、彼我の差に、病人のようになりました
その後も、想い考える、長い日々が続くうち、いつしか、私の心が方向を変えました
あの文明は何故、Alienationを生むのだろう、と
プラスばかりなのに、足し合わせるとマイナスになり、マイナスばかりなのに、足し合わせるとプラスになる
そんな不思議な日本、知りたく思うのですが、取り付く島も分からず、四十年が過ぎました
 
それがつい最近、解決しました
分厚く垂れ込めた霧が、サーッと引いて行くのが見えます
今、私は、天気快晴、日本晴のように、爽やかです
はい、出雲がようやく分かったのです
それが分かったトタン、神道も日本も、おまけにヨーロッパまで、分かったのです!
嬉しくてたまりません

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[第一章、日本書紀]
最初、書記を読んだ時、そのデタラメな記述、仰天したものです、これが日本の神話か、と
筋道も、順序も、理屈もない、噴飯物!、ハナシにならん!、発狂しそうになりました
時を経て、何度か読んで、その仕掛け、段々読めてきます
大旨、倭の五王以降は良いのです、問題は出雲神話と神武東遷です
学者の意見は、絵空事、事実無根、天皇家の対比としての創作神話などでしょうか

しかし私はあの神話、本当だと思うのです
葦原中つ出雲に国譲りを求めて何故、九州日向の高天原天孫降臨か?
この非合理、非整合性、荒唐無稽は、事実・真実だったからではないか、と
いつしか私の心は、解読を開始していました
初代神武天皇と十五代応神天皇は共に東遷しているが、こんな大事件、二度も起きるものだろうか?
初代神武天皇と十代崇神天皇、ハツクニシラススメラミコトが二人?
これらのそれぞれは同一人では無いか、合計三人は同一人ではないか?
そうすると、十五代までの天皇や有名人はどうなるのか?
他にも、名前や時代を異にして、似た話が、書記には溢れ返っている
一度、暦年も順序もばらし、素材の親和性だけで組み立て直した方が良いのでは・・・、と
つまり、以下に展開するのは、学者から離れ考古学を取り込み、書記は疑い神話を信じ、
素材を辻褄が合うよう再構成する、辻褄理論とでも言うべきものになります

さらに気が付けば、最も怪しいこの三人だけに、「神」を名付けた人がいます
この漢風諡号は、平安時代淡海三船が考案した物ですが、
やはり彼も同じく、この三人は同一人物だ、と言っているのでは無いだろうか
さすれば、応神天皇の母が神功皇后であれば、それは取りも直さず、初代神武の母親ででもある、と云う理屈になる
これがスタートです、後は怒涛の勢いで、古代史が開きます!

因みに出雲神話と神武東遷は、日本創世の最重要な、核心中の核心ですが、
平安時代でも嘘だと分かるのですから、当時の人たちは、皆知っていた筈です
こんな分かりにくい歴史書を作った事実上の作者、藤原不比等に濃い疑いがかかります

[第二章、邪馬台国と縄文エリア]
古代史は、邪馬台国から始まります
北九州は百済との貿易で、最初に、弥生時代と鉄器文明に突入します
と云うか、旺盛な稲作地帯である江南が滅び、
ボートピープルの流れ着いた先が、山東半島百済、北九州であり、
この地は互いに、民族、文化、血縁、稲作、貿易を共にしていた、と云うべきでしょう
韓国ではこれを称して、大百済国と自慢しますが、
これらは基本的に広東人・江南人であり、朝鮮人でも日本人でもありません
それが証拠に、日本と韓国、同じウラルアルタイ語族に属して、文法は酷似しているものの、
共通語彙は既に失われていると云う遠さにありながら、稲作の言葉だけ一緒だからです
そしてこれら弥生人と稲作民族を、この文章の中で「里の民」と云う事にします

この時代の、日本の他のエリアとその状況を、俯瞰しておきましょう
学校では、最初縄文、次は弥生と教えますが、これが最初の間違いです
稲作は西から進みましたが、尾張あたりでストップし、その後、東には進まなかったのです
つまり、縄文と弥生は並立、拮抗したのです
この時の縄文エリアは、瀬戸内、出雲、越、尾張が中心で、
当時は非力ですが、諏訪(信濃)、毛野国(東国)、会津(東北)が控えます
この縄文人とその精神を受け継いだ子孫を、この文章の中で「山の民」と云う事にします

また、その生活は、縦穴式住居や狩猟採集を想像するでしょうが、
縄文人即ち山の民は、同時に川の民であり、海の民です
海の民、安曇氏がその名を、信濃の山奥に残すが如く、
大木を切り出し、舟を浮かべ、海洋を遊弋し、貿易の民でもあった事、明記しておきます
三内丸山遺跡で見つかる翡翠や黒曜石、或いはアイヌ蝦夷錦の貿易、
これを想像した方が近いでしょう
ただ、それより、規模も組織力も、数段上、と

[第三章、出雲族出雲神話]
邪馬台国に遅れる事暫く、新羅から戻った素盞鳴尊が、出雲を開き、
百済ルートとは別に、新羅ルートを開拓します
つまり、邪馬台国の鉄の牙城、これの切り崩しが、始まったのです
その鉄を、瀬戸内・越・尾張・関東にさばき、巨利を得、出雲に空前の繁栄をもたらします
これは、素盞鳴尊から大国主命の、輝かしい出雲神話につまびらかです

学者は長らくその神話を否定して来ましたが、近年発掘が相次ぎました
妻木晩田、荒神谷、加茂岩倉、これらはその質と量において、大和を軽く超えています
その時迄に日本中で発掘された銅鐸銅剣の合算総数より、荒神谷一箇所での出土数が上回ったのです
しかも、神話や風土記の記載通りの場所から発見され、驚きは倍加しました
一言で云えば、北九州と比肩される大和より、出雲の方が遥かに大きい事が分かったのです
学者が否定した、出雲が現れたのです
学者が御伽話だとした、出雲神話が本当だったのです

<早速の余談、因幡の素兎(白兎)>
当時の貿易ルートには二つあり、一つは北九州から飛び石伝いで安全な、壱岐対馬ルートです
邪馬台国は勿論ここを支配下に置き、鉄貿易を独占し繁栄していました
もう一つはマイナーな沖ノ島ルート、壱岐対馬の東に浮かぶ、書記に云う淤岐島で、現在の沖ノ島です
白兎はその淤岐島出身を名乗っており、これが味噌です
白兎は鰐(鮫)を並べさせ、その背を飛んで数え、後一つの所で騙しがバレて、赤裸にされます
つまり対馬ルートの島の並びを鰐に例え、これを味方に付けようとした調略が、露顕したのです
大己貴命はこれを助け、その言を容れ、因幡の八上姫と結婚します、つまり同盟します
これにより加羅国から沖ノ島を経て因幡までの、貿易ルートが開通したのです
この沖ノ島ルートにより、北九州の影響から独立し、出雲神話に言う繁栄が興ります
これが因幡の白兎の、神話の真実です
神話には千に一つの嘘もない、と心得るべきです
(因みに淤岐島は、沖ノ島の外に、隠岐も候補です)

[第四章、纏向建設]
かくしてようやく、鉄が普及し始めた頃、天之日矛なる人物が、彗星の如く現れ、但馬を開きます
彼はある意味、この時代を象徴する人物です
つまり、新羅王(加羅王)、という信じられない経歴を持ちます
驚いた事に朝鮮の所伝にも、海の向こうのタバナ国から、との記載があります
タバナは丹波丹波の但馬です
天皇に、土地を与えようと言われ、自分の土地は自分で探す、と豪語した人物です
天之日矛という、由々しい名前を、書記が与えたのも、この人物の異様さを示します
当然新羅ルートから鉄を輸入し、半島の鉄鉱石だけからではなく、砂鉄からの製鉄も初めます
彼の地の古墳の副葬品からは、日本初の砂鉄が出てくるからです
この鉄を、但馬の対岸、角鹿(敦賀)の気比大社に舟運し、わずか20キロの陸行後、琵琶湖の水運と淀川で、但馬、丹後、丹波、越、淡海(近江)、山城、河内、大和、尾張、関東へと、その流通ルートを開き、確立したのです

<余談です>
私もよく分からないのですが、この天之日矛、素盞鳴尊と来歴がそっくりです
外国帰りで、鉄の人で、貿易ルートも同じです、こんな人が二人もいるのかな、と
同一人を、神話と歴史に話を分割するのは書記の常套手段ですし、親子かも孫かも知れません
そして、この天之日矛と、後述の武内宿禰命がこれまた、似ているのです
平安時代の所伝に、宿禰は馬鹿だ、帰らねば良かったのに、という歌があるからです
(これで暗示される如く、この後の文章は、武内宿禰命の悲劇の一生を綴る事になります)

閑話休題
さて、この人物の政治感覚の巨大さは、瀬戸内・出雲・越・尾張・関東を、即ち縄文エリア全部を、大和の纒向に糾合した事にあります
このままでは、九州にやられる、と
九州から独立した自前の貿易ルートと、国内の流通ルートを確立したからこそ、成し得た事だったと思われます
かくして纒向に、人工都市、政治都市、消費都市が誕生したのです
こんな事が言えるのは勿論、近々年発掘された纒向遺跡のお陰です
各地の名族が、本貫地を離れ、中央で生活する、原初の形態が現れたのです
大物主命が、大和に住みたい、と言ったのは、これを指しますし、
何故奈良に出雲神が?、との疑問も氷解します
さてこの時、共立されたのは、瀬戸内の大豪族、物部氏崇神天皇でした
且つこの統合の象徴が、各地の埋葬文化を融合して、この時誕生した前方後円墳であり、
崇神天皇が派遣した四道将軍や、前後しての日本武尊の足跡は、この拡散の道筋と軌を一にしています
大和は順調に、滑り出しました

[第五章、邪馬台国征服]
大和纏向での急展開に驚いた卑弥呼は、関門海峡を封鎖し、鉄を止め、大和を干し上げます
同時に、魏に朝貢し、日本国王の称号を得、外交で勝利します

対抗する大和は、驚きですねー、この瑞穂の国は、西も東も、女で始まります
恐らくは但馬出身の神功皇后が、角鹿の気比大社に軍旅を発し、
武内宿禰と共に、兵を募り、日本海を進軍します
この行軍経路を見れば、神功皇后武内宿禰命は、素盞鳴尊や天之日矛の後裔、出雲族と分かります
さてこの時、北九州の北端を抑えた記念碑が、宗像神、宗像神社です
次いで新羅征伐と見るや、豊の国から反転し、日田盆地に進み、北九州南端の山門に陣取る、卑弥呼を殺します
この時の進軍起点が、宇佐八幡神社です
さて、次の難問が横たわります、魏への体面です
これを繕う為に、その宗女、登与と称し、朝貢したのです
この時の朝貢品に、卑弥呼の時には無かった翡翠が含まれています
翡翠は山の民、縄文人の宝石ですから「私登与は、縄文人出雲族よ」と言っているようなものです
加えて、登与、豊、トヨは、出雲族や後の蘇我氏の美称である事、周知と踏まえます

<余談です>
この部分は、長年の邪馬台国論争に答えるだけでなく、神功皇后が登与であると踏み込む物です
つまり、邪馬台国が大和を征服したのではなく、逆に大和が邪馬台国を征服したのでもなく、
「出雲」が邪馬台国を征服し、日本国を創世したのです
卑弥呼は強かったとは言え、北九州の一角、邪馬台国をもって、日本と言う人はいません
同様に、纒向に集まった敗者どもが、どれだけ気勢を上げても、やはり日本ではありません
本州と九州を統べて初めて、大八洲国の資格が生まれます
この最初の日本統一、日本誕生、日本創世は、出雲族によってこそなされ、
さらに言えば、その出雲の神功皇后こそが、初代天皇の誉れに与るべきだったのです
後に詳述しますが、書記は後述の理由により、出雲族のこの事績、この手柄を隠蔽したかったのです
そしてそれは見事成功しました、それが証拠に、これを唱える学者は、一人も居ません
例えは下手ですが、小説から主人公を抜き取ったようなものです
残った小説は、何が何だか分からなくなります、これが日本書紀です

(蛇足ですが、淡海三船に戻ります)
彼が神と名付けたのは、神武、崇神、応神、そして神功皇后だけです
ピンと来ませんか?
彼が神と尊敬したのは、この四人こそが、最初の日本統一、日本創世、国家形成に関わった人物だったからです
応神は神武とイコール(?)だから一人、神功は神武の母ですからまとめて一人としましょう
すると、神武と崇神が残ります、この二人が、ハジメて、クニを、シラシた、スメラの、ミコトだったのです
ハツクニシラススメラミコトが二人なのは、これが理由です
この文章の後の展開に、乞うご期待、です

さて、この事は、本当の歴史は、下った平安時代でも周知の事実だった事を意味します
まして書記が書かれた奈良末期、赤ん坊でも知っている事実だった筈です
学者は、神話時代が矛盾だらけなのは、文字が無く伝承が混乱したからとしていますが、とんでもない間違いです
文字は嘘を固めるために発明され、口伝は事実を語る機能しかないのを、知らないのでしょうか?
わずか四百年前のこと、文書より正確な、口伝口承により、知らない者は居なかっ筈です
例えば今から四百年前と言えば関ヶ原、野に伏し、今か今かと息を潜める武将たち、
我々には、その武将の息遣いや鼓動さえ伝わってくるではありませんか

[第六章、出雲の国譲り]
魏志では、卑弥呼の後、男王が立つも国は乱れ、宗女登与が・・・、と続きます
この男王は、武内宿禰命であれば辻褄が合います
彼は新羅との繋がりが深く、大和サイドは彼が新羅と結ぶのでは、と疑ったのです
つまり書記では、彼は謀反を疑われ、探湯(くかたち)を受けますし、
彼の回りでは、部下が身代わりの殉死をします
出雲大社では、毎年お盆にこれを暗示する身逃げ神事が行われます
結局、この事態を収拾すべく登与が立ったと云う事でしょう
しかし、これも最終解決にはなりませんでした

驚いたのは大和でした、神功皇后の余りある大成功と、勇み足です
魏に朝貢し、日本国王を称すれば、大和の面目はありません
且つ神功皇后の独立は、関門海峡の再封鎖では、と怯え、
褒めるのではなく、追討軍を向けたのです
武内宿禰との不倫の子、乳飲み子の神武天皇を抱きかかえ、
舟で落ちた先が、薩摩隼人の笠狭碕(現野間岬)
ここから、隼人の手引による高千穂、日向への逃避行が、高天原天孫降臨です
神話はここで、海幸山幸の兄弟物語を挟みます
勿論これは「薩摩隼人は、我が味方、我が兄弟よ」と、天皇家九死に一生を感謝しているのです

<余談に属しますが>
隼人はこの後、天皇崩御の儀式には確か、その籠(?)を担ぐしきたりがあります
勿論、上の逃避行で生まれた信頼関係であり、天皇家歴代、欠かさず踏襲されましたが、
昭和天皇崩御で遂に、これが廃され、自衛隊員が担ぎました
私はそれをテレビで見、愕然とした記憶があります
また後の雄略天皇後醍醐天皇、更には爾後の歴史に於いても、
天皇家は社会の下層民と、不思議なえにしで結ばれますが、
この隼人が、最初であろうと思います

(戻ります)
笠狭碕の後、そこに神武と武内宿禰命の存在は感じられます
薩摩には「弥五郎どん」の神事があるからです
巨大な人形・弥五郎どん即ち武内宿禰命が、神武を率い行軍し、後に天孫降臨と呼ばれます
ところがそこに、神功皇后の姿がないのです
かと思えば、越後の奴奈川神社に、奴奈川姫の壮絶且つ凄惨な伝説が伝わっています
逃げる奴奈川姫に、追手が組まれ、奴奈川で追いつかれ、囲まれ、火をかけられ、たまらず入水し、二度と戻らなかった、と
この奴奈川姫とは、神功皇后ではないでしょうか
つまり神功皇后は、神武天皇をその父武内宿禰命に託し、
自身は仲哀天皇との子応神天皇と共に出雲を駆け戻り、追手を引受けたのです
鬼気迫る、子を思う、親の執念です
この時奴奈川姫の子建御名方神は、徹底抗戦を主張するも敗北し、諏訪大社に逼塞します

平安時代を一貫して、神功皇后が祟ると恐れられたその度合は、入鹿や長屋王の比ではありません
纏向の裏切りだけでも祟る条件は十分ですが、上の伝承は正に「なぶり殺し」です
神功皇后の祟りの強さは、これが理由ではないでしょうか
平安時代の人たちは皆々、奴奈川姫が神功皇后だと知っていたと思うのです

さて御存じの方は、この奴奈川姫の死は大国主命の正妻の嫉妬が原因で、登場人物も状況も異なる、と
これは神話を改竄し、握り潰し、すり替え、名を変えて分割した、日本書紀であれば、問題となる所ではありません
大体、大国主命が問題です、出過ぎなのです
そもそも、その名前からして人を喰っています、大きな国の主、と
私は大国主命は、出雲の神々たちの「総称」であり、「我らの大統領」と呼ぶのと同じではないかと思います
なので、ある時は素盞嗚命を、ある時は武内宿禰人を、またある時はツヌガアラシトを、と
後述しますが、日本書紀を書いた不比等にとって、神功皇后の真実は不都合なのです
且つ藤原氏は後に、全国各地の神社の祭神の名を替え、隠滅を図っています
その犠牲になったのは皆々、出雲神の神社です
この奴奈川神社も果たして、最初から奴奈川神社だったかどうか・・・

次の理由は、このような重大な事件に相当する人物は、神功皇后しかいないからです
石見には出雲を西から挟む、可美真手命の物部神社があります
建御名方神が逃げた諏訪の南の北伊那にも、物部の神社が控えています
なれば、奴奈川神社の東にある物部の弥彦神社は、誰を恐れ、鎮めているのでしょうか
奴奈川姫は、神功皇后以外に考えられないのです

もう一つ、越の奴奈川姫伝説に加え、丹後・若狭に分布する羽衣伝説です
何故こんな伝説が、大真面目で継承されてきたのでしょうか?
土地により変化はありますが、概ねの筋は、八人の天女が羽衣により飛び来たり、水浴を楽しみ、これを見た翁が羽衣を奪い、その天女は帰れなくなります
天女は百薬を作り、翁は富み栄えましたが、増長し、天女を追い出す、と云うものです
この伝承、神功皇后の生涯と同じなのです
恐らくは政略結婚で加羅に送られたトヨが、加羅の浦上八国の滅亡と共に舞い戻り、
同じく加羅の首長の座を振り捨て、彼女を追って戻ったツヌガアラシト(天之日矛)と結ばれ、大和纏向を建設し、邪馬台国を征討し、纏向政権の為に多大の貢献をしたにもかからわず、裏切られた挙句、なぶり殺しにされたこの史実、羽衣伝説とピタリ、一致します
これがトヨの敗走経路、九州から出雲を駆け戻り、但馬・丹波・若狭・越、そして最期の奴奈川(糸魚川の姫川)に終わる、一連の伝説群です
もはや奴奈川姫は、神功皇后以外に疑い得ないのです

ちなみに900年後、同じ事件が起こっています、源義経です
向かう所行く所、夢のような勝ち戦で鎌倉に貢献しつつも、頼朝に嫌われ、奥羽に逃げた義経、これを征討するとの口実で、東北がペロリと平らげられました
同様にトヨの敗走経路を追って、出雲はペロリと平らげられたのです、これが出雲の国譲りです

(ついでに図らずも分かる、天皇譜の重大な真実があります)
奴奈川姫の子が建御名方神であり、神功皇后の子が応神天皇です
その奴奈川姫と神功皇后が同一であれば、建御名方神応神天皇は同一である、と云う三段論法です
これで始めて、不可解極まる応神天皇の書記の記載の謎が、一挙に解き明かされます
瀬戸内を喪舟で進軍し、気比大社の神と名を交換した・・・、と
つまり、彼は東征もせず、天皇にもなれず、敗軍の将として諏訪大社に蟄居幽閉された、と云う事です
では何故皇統譜に、ひときわ輝く応神期が記されたのでしょう?
これは応神天皇神功皇后武内宿禰命の三人に、「ごめんなさい」と云っているのです
(菅原道真も祟り、死後に太政大臣追号されています)

もう一つの結論、神功皇后の二人の息子です
一人は、父が仲哀天皇の兄は、十五代応神天皇と記され、
もう一人は、父が武内宿禰命の弟は(とは書かれていませんが)、初代神武天皇と記されました
さあ、十五代天皇と初代天皇が、同腹異父とは云え、同時代を生きた兄と弟だったと云う事になるのです!
(淡海三船が神武、崇神、神功、応神の四人を神と呼んだ理由、もうお分かりになったでしょう
この四人こそが、日本が誕生した、その瞬間の、その動乱の、その断末魔の、立役者だったからです
彼はすべてを知っていたのです、そしてこれが平安時代の常識だった筈です)

これらの事から、十五代迄の天皇譜は、どのような構造を持っているか、透けて見えて来ませんか?
昔は、天皇と認められる正式な儀式があった訳ではないのです
在ったのは、各地の豪族、各地の神々です
物部には物部の神々、尾張には尾張の神々、出雲には出雲の神々がおわしました
その出雲も書記の出雲は「総称」であり、本来の出雲に加え、但馬、丹後、丹波、若狭、近江、越と、様々に神々がおわしましたのです
これらを、後の不比等が自分の都合で取捨選択し、且つ、それらは同時代の横並びだったものを、あろう事かこれを縦に積み上げたのが皇統譜です
皇紀が二千六百年に及ぶのはこれが理由であり、
学者が言う、皇統を古く長く装飾する為と云うのは、調べず考えず漫然と眺めた「感想」です

そうすると本当の長さはどれほどか、気になる所です
大いなるヒントは、後に章を立てますが、二十六代継体天皇です
彼は武内宿禰命から数えて六代目ですから、六人が二十六代に膨らんだことになります
初期の天皇は、欠史八代どころか、二十人ほど削ればスリムになります

(もう一つ補足が必要でしょう)
素盞嗚命、ツヌガアラシト、アジスキタカヒコネ、天之日矛武内宿禰命神功皇后・・・
これら日本海文化圏の神々、つまり出雲族の神々は皆、外国帰りです
その外国とは具体的には、新羅百済に挟まれる小国、加羅伽耶です
この国は鉄を産し、四方から人が集まり交流する交易都市だった、と思われます
その政治形態は王政や王朝ではなく、有力者による合議制だったのでしょう
後の日本の、堺と同じです
貿易で栄え、納屋衆の合議で運営され、回りの大名や国が力を蓄えると同時に併呑される、と云う所まで一緒です
上述の出雲の神々も、その地の鉄を求め、往還した人達です
これだけの交流があれば、この地との間に婚姻も、政略結婚も在ったでしょう
その一人がトヨだったのですが、その地で起きた伽耶の浦上の八ヶ国が滅ぶ政変があり、そのあおりを受けて帰った、と云うことではないか、と
羽衣伝説の天女の数が八人である理由は、もうお分かりでしょう
天之日矛新羅王と云われますが、恐らくは伽耶の「納屋衆」の長(をさ)だったのでは、と
だから、日本に帰る際、世襲ではなく合議で、と言い残したのは、素直に頷けます
もう一つ、そのような能力者だからこそ、日本に帰ればたちまちの内に、縄文全域の交通網を作り上げることができたのでしょう

(すみませんがもう一つ、トヨと八幡と豊の国)
私はある田舎を車で通り、そこの神社で「八流の旗」を見、驚いたことがあります
単調でくすんだ田舎の風景に、あざやかな赤白黃緑青・・・、
鳥居より高い数本の竹竿の上から色とりどりの布が地面まで垂れ下がり、風に流れています
その旗は、原色の布を合わせ着る朝鮮婦人の衣装とイメージが重なりました
天女の羽衣とは、朝鮮貴人の衣装の事ではないでしょうか?

浦上八国が滅び、トヨが帰りました
豊の国は、渡来人が創ったと云う伝承が残りますが、
そこに八幡神社の元祖、宇佐八幡があります、幡は、幟であり旗です
即ち「八流の旗」が立っているのです、八流は八ヶ国ではないでしょうか?
豊の国に逃れた渡来人とは、浦上八国ではないでしょうか?
そして八幡神社とは、浦上八国の神ではないでしょうか?
祭神は応神天皇神功皇后です
神功皇后の九州遠征で、豊の国の八旗軍は、我らがプリンセス、我が女王と狂喜したのでは、と
これを加えたトヨ軍は、正に宇佐八幡を起点に日田盆地へ進み、邪馬台国を背後の南から襲います

九州は、日田で持つのです
トヨは今に残る小迫辻原遺跡、日田に拠点の城を築きます
唐を恐れた天智天皇は、最初から博多を捨て日田に引き下がり塁城を築きました
黒田官兵衛関ヶ原合戦の留守に、日田を開城し北九州を瞬時に席捲しました
徳川家康は日田を、天領にしました
日田の戦略性、この発見は、トヨが嚆矢です
その軍略眼、これが女かと溜息の限りです
八幡神軍神との側面を持ちますが、これが由縁です
勿論トヨ自身は邪馬台国を、耳納山地高良山の山門に、正面から攻め立てます
その周辺に、一歩一歩陣を進めるように、濃厚なトヨ伝説が分布するからです
学者はトヨを否定したために、トヨ伝説と小迫辻原遺跡まで否定しなければならなくなったのです
そして未だに、邪馬台国論争で無駄飯を喰うのです
豊の国は当然、トヨの国です
ただ、トヨが開いたこの同じ道から、纏向軍が背後から襲って来た時、トヨの運命は決まりました
トヨの小迫辻原が落城したのです

もう一つ神道ですが、これを追求していくと、この宇佐八幡でもそうですが、そこに朝鮮の神がヌッと顔を出すのです
後章で述べますが、稲荷神社は渡来人秦氏の神です
神道は玉葱です、一枚一枚剥いて行くと、最期には何も無く、実存主義そのものです

(話を戻しましょう)
神功掃討に合わせ、大和連合はすかず、神功の故郷、出雲の封鎖に動いたのです
神功皇后とその同族の出雲に、関門海峡を握られる恐怖、これが生死・死活の瀬戸内の物部氏です
出雲経由だろうが瀬戸内経由だろうが、鉄に変わりのない尾張や東国は物部氏に付き、
大和は纒向の、山の民の仲間割れが起きたのです
西は石見から出雲を挟む、可美真手命の物部神社
南は建御名方神が逃げた、諏訪神社の喉元北伊那の物部の神社、
東は奴奈川姫(神功皇后)が逃げた、越の弥彦神社です
つまり、出雲の東西南に杭を打ち込み、出雲の鉄の国内流通を断ったのです
出雲の国譲りとは、この経緯を述べたものです
さて、この戦争、軍隊の戦争であると同時に、貿易戦争です、出雲ルートか、瀬戸内ルートか
且つ又、出雲の鉄の不買運動だったのです
国内流通を断たれれば、もはや輸入も貿易も出来なくなります
以後、出雲は、日本海に点在する海岸線の寒村となり、滅亡します

<ここで余談>
貿易と、貿易ルートに付いてです
古代史は、鉄と貿易ルートの争奪戦なのです、これで初めて、膝を打つ説得力を持ちます
さてその貿易というものには、輸入と輸出があります
鉄を輸入したのは良しとして、その対価、輸出は何だったのでしょう?
それは、どの天皇だったか、意味じくも「浮く宝」と言っています
ピンと来ましたね、その大木を握っているのが、山の民なのです

この時期、朝鮮・中国は勿論、インドもメソポタミアも、禿山と化しています
文明は、鉄で興り、木を喰い尽くし、自ら滅ぶのです
鉄一トン山一つ、ご存知の通りです
あとに残るは、砂漠です、砂漠は人間が作ったのです
雨は、上から降るのではありません、下から降るのです

<余談、ロマンチック神話=日本武尊>
垢抜けた西洋の神話に比べ、劣等感を感じる泥臭い日本神話ですが、
因幡の白兎と共に、日本武尊は愁眉です
猛く、美しく、悲しいのです
おさらいしておきます
その熊襲退治では、女装し酒を飲ませ、酔った熊襲を騙し討ち
出雲では、予め竹みつを用意し、水浴後に互いの刀を交換して戦い、これも騙し討ち
汚いのです!
ところが東国ではガラリと変わります、「言向け」「言和わ」しているのです、
つまり説得、説諭しているのです
驚いたことに、関東では日本武尊は、民話や神社で感謝されています
この言向けとは、農業指導だったのです、だから皆感謝し、神社に崇め奉ったのです
かくして東奔西走、ようよう帰るも疲れ果て、足は三重に折れ曲がり、毒気に当たって死にます
三重県の名の由来です
その魂は白鳥と共に都へ飛び、美しく悲しい物語に仕上がっています
加えて、草薙の剣や関わる女人など、彼の舞台は尾張である事、踏まえておきます

さて、初代神武から十五代応神迄、その時間軸は皆潰せ、と云うのが私の主張です
これらは日本創世、日本建国時の同時代の人物と活躍譚を無理矢理、縦に引き伸ばしたものです
そこでの超有名人、日本武尊は誰か?、昔から議論がかまびすしい所です
学者は、多くの人の活躍を一人に集約したもの、と例によって例によります
物を考えた形跡が見えません
座して動かず、労せず働かず、本と書物の孫引きだけで、思いを練りあげる人種です
だったら分かりません、と云えばいいのです
私は、尾張氏の民族叙事詩だと思います、彼の事蹟は、尾張の歴史にぴったりだからです

さてその歴史、書記では尾張は抹殺されています、一行も出てきません!
纒向建設の功労者なのに、何の記載もありません
裸一貫の天武天皇に大軍と大勝利を与えたのに、お礼の言葉もありません
既述・後述のように、出雲は出ているものの、肝心の要は抜かれています
物部氏も、王位禅譲の大英断は他人事にされています
と言うか、崇神天皇物部氏である事も、饒速日命物部氏の祖である事も、その本貫地が瀬戸内である事も、
これら皆々隠す為、天の磐船で、いずこからともなく・・・、と言う有様です
加えて律令の公地公民移行で、日本国の半分ほどの土地と人民を、無償で差し出した大功績は、
誉められるどころか、物部守屋に見るよう、悪人として強調される有様です
これから述べる天之日矛も、名前だけで、
その最大事蹟である、纒向建設、奈良建都、日本創生は、厳重に秘匿されています
(何故書紀がこのような不自然な態度を採るか、後に詳述します)

地図を見て下さい、但馬と尾張は、琵琶湖で繋がります
但馬から気比大社に舟運すれば、多少の陸行後、湖運と河運で、但馬、丹波、越、淡海(近江)、山城、大和、河内、尾張は指呼の間です
同じく日本海を進めば、越後、信濃、諏訪、毛野国(東国)、会津へと、
その流通版図は、縄文人のエリアを悉く尽くします
天之日矛は、但馬と尾張を、交通と通商を介して、
奈良は纒向に、縄文の「国際連合」を立ち上げたのです
何故奈良か、それは但馬と尾張の中間にあり、瀬戸内から山を隔てた要害の地だからです
且つ俺たちは、新羅の鉄鉱石だけでなく、砂鉄からも鉄を作れるぞ、と情報戦を展開します
これで泡を食い、遅れてならじと、出雲と物部が飛びついたのです
大したものです、最初から、「皆さ~ん」と演説すれば、誰も集まりません
羨ましがらせ、高く売るのが、商売の極意です

そして出来た、纒向政権・大和政権は、早々に成果を表します
既述の出雲による邪馬台国平定、続く神功掃討と出雲封殺の仲間割れです
さてこの時、物部の手足となり、こき使われたのが尾張です
神功掃討に九州へ、出雲封殺で尖兵役を、東国では農業指導にもかり出されました
けれども終わってみれば、そこに在るのは物部の一人勝ち
瀬戸内ルートを独占され、出雲ルートも、但馬ルートも、北九州ルートも潰され、グウの音も出ません
友達だった筈の但馬も出雲も今はありません、しかもあれでは、汚い騙し討ちではないか!
悲しくてたまらないのです
事が終わった暁には!、と念じた、大和は纒向の中央政界での大活躍、これも泡と消えています
やるせないのです
さあどうです、日本武尊と同じではありませんか?
これは尾張氏の「民族叙事詩」だったのです
(それともう一つ、神話の読み方を知って欲しいのです、因幡の白兎や、羽衣伝説や、奴奈川神社や、日本武尊で)
(二つ目、従って日本武尊がどの天皇の子か孫か、そんな天皇譜はゴミと一緒に、掃いて捨てましょう)

[第七章、神武東遷]
出雲掃討は成したか、に思われました
しかし日本が、神道が、その真髄を現すのは、この時です
崇神の大和では、天変地異と西からのはやり病で、人口が半減します
不思議な事ではありません、疫病は貿易ルートに乗ってやって来ます
その時まで、北九州、出雲、但馬、瀬戸内とあった貿易ルートが、一本に束ねられたのですから、効き目は数倍、相乗効果は数十倍だったでしょう

これを、裏切られて呪う神功皇后武内宿禰、つまり出雲の祟りと恐れた大和は、
三輪山の出雲神、大物主命である、大神神社の神託を伺い、
日向から呼び戻したのが、神功皇后の御子、神武天皇であり、神武東遷です
つまり、神武天皇は祭祀王であり、軍隊の移動ではないのです

交換条件として神武天皇は、瀬戸内ルートの是認と物部氏の祭祀を呑まされます
天香具山での八十枚の平瓮です
これを作り終えたトタン、それまでの小競り合いは終止符を打ち、大和入城を果たしています
天皇家の祭祀が、最重要な大嘗祭以下、皆々、物部祭祀である理由はこれに依ります
前方後円墳も基本的には、物部氏の古墳がベースであり、
この上で行われた祖霊継承祭祀、つまり大嘗祭が引き継がれたのです
物部氏としては、象徴天皇なぞそそくさと禅譲し、瀬戸内ルートの実を取った、と云う事でしょう

もう一つ、その後の神武天皇はその子、その孫と代々に亘り、 磯城縣主から姫を迎えています
さて、その磯城縣主とは誰でしょうか?
書記はその出自を沈黙しますが、物部氏の一族です
お分かりですか?、生粋の出雲族神武天皇は、物部氏に羽交い締めにされたのです
神武という名や八咫烏などから、武力制圧を想像しますが、その反対で、拾われたと云うに近く、物部氏の自家薬籠中の物と化し、実権は愚か、その祭祀でさえも自分の出雲神道を捨てさせられ、物部神道を押し付けられて、純粋なロボット神主、象徴天皇だったのです
彼に続く八代ですが学者は、実績のない事を理由に欠史八代と否定します
これは神武の認識が狂っていることから来る間違いです
知れば、逆に何もしなかったからこそ真実と分かる筈です
物部の監視下で、子を作ること以外何もできなかったのであり、これこそが真実です
心配は御無用です、先述したように皇統譜は縦に積むのではなく、本来の横に並べれば矛盾は起きません

それではもう一つ、賢者淡海三船が神武と命名したのは何故か?
これを神の様な武勇と勘違いした学者は、再度道を誤ります
神は日本創生の暗号であり、武は武内宿禰命の子と云う意味の暗号です
武内宿禰命の名は、武内+宿禰と誤解されますが、武+内宿禰(官職名)が正解です
ですので、武内宿禰命は日本では馴染みの名前、「たけし君」なのです
また、武の天皇は、藤原時代に入って、文武、聖武桓武と現れ、違うではないかと思われるでしょうが、この三人の共通点は、武どころか神経質で弱々しい天皇でありながらも、長じて真実の歴史を知って、藤原の汚さに気づき、体内を流れる藤原の血を憎み、藤原に盾を突いた天皇だったと云う事です
即ち、たけし君への先祖返りをした、と淡海三船はほほえんでいるのです
(淡海三船は、その学識にも驚きますし、その捻りにも驚きます
逆に言えばこれだけ捻らなければ、藤原の世は生きられなかったのです
他にも平安時代の雑文には、ツイッターのように浮かんで消える記載が多々あります
天武は天智の兄だった、入鹿に殺された聖徳太子の子は本当は親子ではない、宿禰は馬鹿だ帰って来なければ良いものを、等など
しかもそれを取り入れると、歴史がスッと進むのです
でも学者は即座に否定します、書紀が正史であり、書紀が官製歴史書だからです
バカではないか、と思います)
 
<バラバラに述べた皇統記をまとめれば>
書記は、
初代神武、十代崇神、十二代景行天皇の皇子日本武尊、そして十五代応神天皇と並べます
 
学者は、
神武は居なかった、或いはその事績が崇神と重なるから、同一人物を二人に分けたとしています
そして二代から九代までの天皇は存在しなかったとし、欠史八代と云います
そんな天皇を挿入したのは、皇統を古く長く修飾する為としています
日本武尊に付いては、英雄譚を一人に集約した物語とし、その存在を否定します
応神の家来武内宿禰は、三百年も生きられる筈は無いから非科学的とし存在を否定します
応神の母神功皇后は、一生を戦線で過ごしていますが、これは現実的ではないから、これも架空の物語として否定します
 
私は、
十五代までの初期の天皇譜は、順次代々引き継がれたのではなく、一つの事件に関わった、同時代を生きた神々を縦に積み上げた物だと思います
 
初期の天皇は三つのブロックに分けられます
神武から崇神は物部ブロック、景行と日本武尊を中心とする尾張ブロック、武内宿禰と神宮皇后と応神の出雲ブロックです
これは一つの事件を三つの地方から見たために、三つの話になったのです
それは良いのですが、この話を書記は縦に積み上げたのです
 
要約すれば
物部の崇神は押されて天皇になりました
同時進行で出雲の武内宿禰と神宮皇后は、北九州の卑弥呼を殺し日本国を統一創世しました
この快挙を恐れた物部の崇神尾張日本武尊は結託し、出雲を滅ぼし国譲りを得ます
神武を薩摩隼人に追い、神宮皇后を姫川に殺し、応神を諏訪に幽閉します
しかし直後の天変地異に動転し、日向から出雲の子孫神武を迎えます
従って神武は傀儡政権であり、子作り以外の実績がないのはその為であり、これは物部政権の範疇です
たまらないのは尾張です
粉骨砕身働いたのに、物部は裏切り、神武の出雲と結ぶとは何事か
神武東遷で土蜘蛛始め、小さな抵抗を受けるのは、尾張の憤懣と抵抗があった事の証です
日本武尊の最後が哀愁を奏でるのも、この下地があるからです
また皇統譜も、これらの代を圧縮すれば、現実の暦年に添えると思います

[第八章、継体天皇]
時代は下り、倭の五王が、象徴天皇からの脱皮と中央集権を目指します
しかし急ぐ雄略天皇の、王位簒奪の強権と軋轢が、天皇家内部の分裂と憎悪の連鎖を生み、衰弱します
この天皇家の内紛と、続く瀬戸内ルートの混乱を横目で見、
出雲亡き後の新羅ルートを復興し、その鉄貿易で力を加えた越から、
継体天皇が、蘇我氏と共に大和に進出します
因みに前出の、武内宿禰の末裔が蘇我氏ですから、出雲族の正統な末裔です
つまり天皇家が、神武の最初に振り戻り、その子孫に再度リセットされた事になります
出雲・越は勿論、尾張・諏訪・東国・会津に及ぶ大豪族、
大国主命神功皇后の流れをくむ、二番目の山の民、越からの蘇我氏が登場します
この蘇我王朝、百年に亘り土地政策を進め、屯倉を拡大し、中央集権を推進し、天皇家を支えます

ただこの時、継体は苦いスタートを切る事になりました
この時横たわる重大な背景は、瀬戸内ルートの弱体と、日本海ルートの復興です
日本海を気負って乗り込んだ継体に立ちはだかったのは、やはり瀬戸内ルートの物部です
王位の交換条件として、貿易ルートを戻せ、と踏み絵を迫ったのです
神武に対し、王位の交換条件として、物部祭祀と瀬戸内ルートを認めさせた歴史が、ここで再度、繰り返されたのです
継体が河内に留め置かれ、大和に入れなかったのは、これが理由です
そして遂に物部に屈し条件を呑み、旧王家の婿養子となって大和に入った時、九州で磐井の乱が勃発します
東の継体と西の磐井が、共に誓った日本海の志を、継体が捨てたその非を、磐井が鳴らしたのです
同じく、同盟を結んだ尾張から嫁した継体の前妻、これが産んだ安閑・宣化の両天皇は不可解な死を遂げ、
後の天皇は、入婿が嫁の、その旧大王家の正妻が生んだ、欽明・敏達・用明・崇峻と継承されています

<ここで余談、神無月とは?>
神話をよく読めば、出雲の国譲りで、神々は殺されてはいません、追放されています
どこへ行ったか?、越や諏訪、関東や東北です
そこに沢山の、出雲神がおわします、からです
と云うか、日本中の神社の祭神が出雲神であると云う、摩訶不思議な現象はこれが理由です
これは、地元の人々に喜ばれた事を意味します
この時散った宗我氏が伝えた、「鉄」と「技術」と「地域振興」が歓迎されたのです
これが、宗我氏が日本中で崇められ、血縁を張り影響力を持つ由縁なのです
因みに蘇我氏とは、越の宗我氏が怨念を秘めて改名したものです、「我、蘇り」と
土佐に逃げた宗我氏は、長宗我部、香宗我部などと、元々の名を名乗っています
(御存知の通り、正確にはこの両宗我氏は、蘇我氏に仕えた家臣である所の秦河勝の末裔です
逃げた土地で名乗りを掲げるに当たり、秦より主君筋の宗我の看板が見栄えが良かった、と云う事です)

そしてこれらの人達が、十月と決めて「帰省」したのではないか、と
恐らくは、出雲が滅びたのは十月だったのではないか、と
帰省すれば、よもやま話に花が咲きます
最大の話題は、息子や娘の、嫁取り婿取りの相談です
これこそが豪族勢力の維持・発展、存続・拡大の、死活で最大の、人事問題です
これが、神無月、神在月、縁結び、では無かったか、と
更に、思い至れば、出雲が粉砕されて、
西へ逃げたのが神武天皇
東へ逃げたのが継体天皇
南へ逃げたのが長宗我部と香宗我部であり、坂本龍馬です
いずれもいずれも、日本を作った大英雄ばかり、出雲族蘇我氏の末裔です

[第九章、中大兄皇子乙巳の変]
蘇我氏が稲目、馬子、蝦夷、入鹿と下るや、朝鮮半島がうねります
魏が代わり随唐に、新羅による百済滅亡・・・、国際情勢が海岸線にヒタヒタ迫ります
これに呼応し、権力欲と保守反動の中大兄皇子と、百済王の人質豊璋、即ち中臣鎌足による入鹿暗殺、これが勃発します
里の民の政権奪取です
この底流は、天皇家屯倉拡大と中央集権を図る蘇我氏が居り、これに反発する守旧勢力が生まれ、
蘇我氏から遠い、イコール皇位継承権が薄い中大兄皇子蘇我氏を憎み、
味方を得るため、後者の守旧勢力に近づいたのが、基本構図です
その謀略の参謀として組んだ相手が、同じく親新羅外交の蘇我氏を憎む、百済人の豊璋・鎌足でした

乙巳の変のお礼が、国中の反対を押し切った、無謀極まりない、百済は白村江への参戦です
続く平安時代の四百年の長きに亘り、海峡が遮断される訳ですが
これは藤原氏百済人であり、新羅憎しの由縁であれば、全ての辻褄が合います
奈良に伝来、平安で熟成、開いて受け入れ、閉じて醸す、これが日本文化と、したり顔の学者です
縄文人の、国も垣根も有らばこそ、自由奔放な海峡往還、藤原無かりせば、と思わずにいられません

この時、蘇我氏に仕えながらも、私有地を多く抱えた秦氏は、土地を奪われるとの危惧から、鎌足の誘惑に負け、入鹿暗殺の実行部隊として働きます
しかし事件後、下手人の末路はいつも同じ、鎌足に捨てられ、山の民に沈潜します
新羅出自の秦氏を、百済王家の豊璋・鎌足が許す筈も無く、利用するだけ利用したのです

さて、後に古代豪族を完全完璧に葬った藤原氏が、小豪族秦氏を抹殺しなかったのは何故でしょう
秦氏は、太子信仰を称揚し、これを喧伝したのです、その意味分かりますか?
藤原氏は入鹿の悪を成敗したと言っているが、俺は真実を知っているぞと云う脅しなのです
つまり藤原氏をゆすったのです
秦氏の氏寺、太秦広隆寺に、天皇家から今も絹が贈られるのは、この為です
ゆすり続けなければ殺される事を、同じ渡来人の血を持つ秦氏は知っているのです
同じく秦氏は、自らの技術を、聖徳太子伝来と称し、太子信仰と共に山の民に広めます
その秦氏の神が、稲荷神社、稲荷信仰として、山の民にあまねく広まり、
日本最多の、身の丈サイズの、身近な神社となるのは、必然の流れでした

[第十章、尾張大海人皇子壬申の乱]
白村江に大敗し、唐の反撃に怯え、国中に土塁を積み上げる、天智天皇藤原氏に、
蘇我の血を引き、大海(尾張海部)の名を負う天武天皇が、三番目の山の民、尾張氏と共に大政奉還に成功します
その事績をつぶさに見れば、律令制の緻密で強力な遂行です
雄略天皇が始め、蘇我氏が進めた、中央集権の夢、これが実現されるかと思われた、その瞬間!

[第十一章、藤原氏]
その妻持統天皇は、己が天智系の子を天皇に据えるべく、父鎌足を凌ぐ謀略家、不比等を大抜擢
並み居る天武の子を、暗殺・弑逆・廃嫡し、その数四十人に及ぶ、事実上の無血クーデター、里の民の政権が復活しました
この粛清、一度には留まりませんでした
下って仲麻呂に至るや、天武の血を引く蘇我氏最後のプリンス、長屋王の変が勃発します
勿論藤原の罠です
この時の大粛清は、死者だけで、王族・貴人、四百を数えます
公地公民の筈の律令制に裏口を設け、己だけが入れる隙間を作り、
一方外戚として天皇の印璽を握り、後は四百年の藤原の世となります
同時進行で滅ぼした古代豪族は、蘇我氏に始まり、物部氏、大伴氏、阿部氏、紀氏、
最後に物部の末裔、菅原道真となります
藤原氏が、一官僚・菅原道真を何故これ程恐れたか、その理由がここにあります
かくして古代豪族の絶滅はここに、完全・完璧に、終了致しました
この事我々は、古い歴史の事だからと、疑問を持ちませんが、
これは藤原氏の、執拗且つ不断の謀略の結果です
それが証拠は、古代豪族より長い時代を、藤原氏が生きている事で分かります
平安鎖国に加え、日本はその権力に、誠にいびつな構造を抱えることになったのです

藤原氏は三代、三度に亘り、蘇我氏を滅ぼしています
一度目は、豊璋・鎌足が、蘇我本宗家の入鹿を暗殺します
二度目は、その子不比等が、蘇我石川系の天武天皇の遺児、これを根絶やしにします
三度目は、その孫仲麻呂が、蘇我氏最後のプリンス、長屋王を謀殺します

さてここでまた、神道が顕現します
不比等の四人の息子が、一年の内に皆、疫病で逝ったのです
震え上がったのは不比等です、呪いです、祟りです
自分が殺したのは誰か?、入鹿暗殺、天武根絶やし、長屋王謀殺の、皆出雲族です
この為、出雲に大社を建て、もう一つ、日本書紀を改竄したのです

[第十二章、歴史改竄、神話改竄、皇統譜改竄]
問題は、この日本書紀です、この嘘に皆、騙されたのです
先ず日本書紀は、天武天皇の発案と言われますが、完成は三十年後の不比等です
不比等が心血を注いだのは唯一、自己の正当化と、出自を隠すことです
その為には、殺した入鹿は悪人でなければなりません
それを討ったのが、正義の味方、藤原、と
聖徳太子なる人物を褒めちぎり、その子を殺したから、蘇我入鹿は大逆賊、というストーリーを展開しました

さて、ここで困ったことが起きました
入鹿一人を殺して悪人にしても、問題の解決にはなりませんでした
そこには四百年の歴史が存在していたからです
この蘇我氏はその祖、武内宿禰神武天皇を生み、後裔の蘇我本流は継体天皇を誕生させた、連綿と続く大豪族だったからです
つまり天皇家の断絶を、二度に亘り救済し、天皇家より古く、天皇家の母体とも言うべき、否定のしようもない大豪族、大名族だったのです
言うなれば天皇家は、蘇我氏の分家、蘇我氏の支店なのです
この為、蘇我氏の伝承を皆々消し去るのに、血走ったのです
書記では、蘇我氏は、乙巳の変の間近で漸く、悪人として登場します
他の書は皆、その祖は武内宿禰と認めているのに、完全黙秘しています

もっと困ったのは、生粋の出雲族の出雲人、神武誕生の経緯です
母親の神功皇后を出せば、武内宿禰が出てきて、蘇我氏は名門とバレてしまいます
まして日本創世、日本建国が、神功皇后武内宿禰命による、出雲族蘇我氏だったなどとは、口が腐っても言えません
一言でも漏れたら、その正嫡の蘇我入鹿を暗殺した、ポッと出の藤原など、瞬時に吹っ飛びます
出雲神話と神武東遷から、何が何でも蘇我氏を分離しなければならない動機が、ここにあります

しかしこの作業は、困難を極めます、あなたならこの宿題、どう解きますか?
何故なら天皇家は、出雲族蘇我氏の最も純粋で、最も香気な中心部を蒸留した血脈であり、本来不可分なのです
因みに実はこれが、現在の我々が天皇を慕う、その理由の根源です
つまり縄文人である我々の遺伝子は、我ら縄文人のトップが出雲族蘇我氏であり、蘇我氏のトップが天皇である、と揺るぎ無く知っているのです

さて不比等は、誠に優秀でした、万人、億人の学者より優秀でした
先ず、本来は崇神天皇の後の神武天皇を、神世の時代に押し込み、神功皇后と切り離します
一方、素朴な太陽信仰である天照大神に、性転換手術を加えて女とし、
他方、有りもしない高御産巣日神を捏造し、二人のその孫・天孫族が、初代神武と言い換えます
つまり、己が祖先、高御産巣日神をでっち上げ、百済渡来人の出自を隠し、
その孫が天皇家始祖、神武天皇である、としたのです
つまり己が、天皇家元祖という虚構を構築したのです
もうお分かりと思いますが、これは不比等が、当時の神話と天皇譜を、自由に改作し、
神話のどこをいじれば、歴史が我が物になるか、熟知していた事になります

(話はそれますが)
天照が女になった理由は、不比等の腕力に加えて、ある事実がありました
それは、巫女の存在です
教育的配慮の為に、その役割、詳しくは語られません
と云うのは、巫女は神様とセックスをするのです
だから処女でなければならず、再婚せず、未婚で通します
この為今でも、神社の巫女アルバイトは、高校生です
その女のアクメとクライマックスは、男がたじろぐほど深く強いものです
苦痛と歓喜のないまぜとなった興奮に、のたうち狂い、トランスに漂い、絶叫します
その言葉、後で聞いても本人は覚えていません
それも当然、その絶叫は巫女の体と口を借りた、神の言葉であり、これこそが神のお告げです
(巫女はお告げを授かるのに身を捧げていますが、
キリストは何もしていないのに「妬む神」から啓示を受けています
巫女から見ると、タダの啓示、自己申告の啓示に見えます)

その後時代がくだり、男神の天照と、これと通じる巫女との区別が、曖昧になり初めました
書記は、天照の事を、「大日靈貴(おおひるめのむち)」とも記しています
(「靈」の字の下部は「巫 」ではなく「女」ですが、字が出ず、済みません)
この字はこれ一字で、巫女を意味しています
つまり祀る巫女と、祀られる天照が、七世紀のこの時期、既にぼやけ初めているのです
不比等がこれを、見逃す筈はありませんでした

(脱線を続けます)
我々は山に登り、日の出を拝みます
この時無言で拝み、「天照様」とは発しません
我々の心の底には、男は太陽、女は月、太陽神なら当然男神、という素朴な信仰があるからです
太陽神・天照が女にされ、藤原に奪われた為、我々は呼ぶ神を失い、無言で日の出を拝むしかなくなったのです
太陽神が女であるのは、どの国、どの文明、どの神話と言えど、日本以外にありません

(もう一つ、脱線をお許し下さい)
その後、巫女はどうなったか?
売春婦になったのです!
時代が下って、人は旅行・観光に動くようになります、物見遊山です
遊園地やディズニーランドが有る訳もなく、その対象は神社仏閣です
神社が古代豪族の館や出城であった事は、既に忘れ去られています
物見遊山の目的は、何でしょうか?
ハイ、買春とストリップです、これが楽しみで、神社に行くのです
それを饗応するのは、巫女以外に無かったと云う訳です
この売春、いきなり素っ裸で抱き付かれても、面白いものではありません
その効果を、いやが上に盛り上げるのがストリップです
部屋に呼び、舞いを観、飲み食いを共にし、最高潮を迎えます
問題は、この時の「舞い」です、この舞いに、美と芸術が潜んで居たからです
これに気が付いたのは、歌舞伎の祖、出雲の阿国でした
彼女は激しく、苦悩します
この美と芸術が、その裏にある行為と一体である、逃れられない事実です
(美と芸術が、その根底にエロスを内包するのは、これが原因です)
この美の片方だけが昇華し、今、銀座の歌舞伎座で興行されていますが
醜から離れて、美は存し得るでしょうか?
濁から離れて、清は存し得るでしょうか?
歌舞伎は、出雲の阿国で生まれ、出雲の阿国で死んだのです
(この美と醜、清と濁は、この文章のテーマであり、最終章でもう一度取り上げます)

(戻ります)
上述の天照大神高御産巣日神の構図は、時の政治情勢を完璧に模写したものです
つまり、持統を天照に例え、(それが為に天照を女と成し)、早世したその子草壁皇子と、
不比等が己を模した高御産巣日の、その娘の間に生まれた、孫である所の文武天皇
これを神武とだぶりにだぶらせ、瓜二つの物語が創作されました

そしてこの嘘を固める為に建造したのが、天照大神の座します伊勢神宮です
これは、当時の言論統制だった、と思います
この巨大な伊勢神宮の威容で、人の口を封じたのです
この時期、警察も憲兵も居ません
言論統制は権力者の、威厳と威容がその役割を果たしていたのです
もう一つ、二十年ごとの式年遷宮、これは言論統制を再通知する儀式では無かったか、と
(話はそれますが、警察・憲兵の居る現代は、藤原同等、陰湿な時代です)

面白い事にこの時、天照が一人では寂しかろうと、丹後から豊受大神、つまり女神が迎えられます
そうすると天照はレズビアンだったのでしょうか?
こんな所にも、チラリと嘘が垣間見えるのです

この罠に見事嵌った学者達は、東に日出ずる天皇家の伊勢、西に黄泉の国の出雲、と喜んでいます
持統以外の歴代天皇が、この墓伊勢神宮に、一度も参拝しないのは、そこに御先祖様が居ないからです
この事を見ても、天皇家は本当の歴史を知っているのでは、と思えてならないのです
本当の祖先は勿論、政権が鳴動する度に神託を発する、豊の宇佐八幡、
神功皇后武内宿禰が、恋を契った、記念碑です

もう一方の応神天皇記では、
神功皇后武内宿禰を、蘇我氏の匂いを消去してから、一臣下として、
且つ、祟らぬよう三百年の長寿を生き永らえさせて、ハッピーエンドの小説を上梓したのです

さて一つ、疑問に思いませんか?
出雲神話と神武東遷、何度読んでも理解できない、真の理由がここにあったとしても、
これほどの歴史捏造、歴史改竄、その時代の人達が良く黙っていたな、と
藤原氏は、たおやかな公家を装い、おくびにも出しませんが、
鎌足不比等仲麻呂で見たように、血の政権です
山に隠れれば、一族を山狩りして、その所伝を奪い、隠滅しているのです
自分より古い家と偉い家は、その子孫・末裔の、最後の血の一滴に至る迄、許せない血筋なのです
(学者はここでも調べもせず、適当なことを云っているのが分かります
当時、文字も、書物も、家伝書もあったのです、現に蘇我氏の「国書」を奪い隠滅しています
それを、当時は文字が無く、口伝口承が混乱したから等と、書紀擁護の、正にその場限りの言辞を弄して恥じないのです)
恐れた人々は仕方なく、神社の由来や、かぐや姫、浦島太郎、一寸法師、羽衣伝説など、お伽話に変えて、かすかに触れたのです
また、古事記万葉集ですが、これも日本書紀に対する異議書です
ただ、かすかで、かすかで、そのつもりでないと、読み取れません

(もう少し、はっきり申しましょうか?)
その古事記の、その作者は、藤原氏に騙され追い落とされた、秦氏ではないかと思うのです
その理由の一つ目は、日本書紀が親百済であるのに対し、古事記は親新羅です
この時期、百済・瀬戸内と、新羅日本海は、貿易・経済・流通・怨念を二分しています
つまり古事記には、蘇我氏に繋がる勢力が匂うのです
当然その著者は、不比等に対立する勢力と考えるのが普通です

二つ目に、古事記の記述は事実上、顕宗天皇仁賢天皇で終わり、後は事務的な天皇系譜の羅列に終始しています
さてこの両天皇は、秦氏の本貫地の一つ、針間(播磨)から発掘されています
当然、秦氏が擁立したのです
これで終る事により、己れを匂わし、寸止めを守っているのではないでしょうか
勿論これは、藤原の言論弾圧下での、ギリギリのせめぎ合いです
あらすじは轍を正確になぞりながらも、武内宿禰命蘇我の祖、とチラリと漏らすのです
つまり古事記を未完に終わらせ、「最後まで書いてやろうか?」と迫っているのです
因みに、その書記と古事記、どちらが先かは、学者のおもちゃですが、当然古事記が後です
あんな出鱈目な書記と同じストーリーを、その前に創作するのは不可能だからです

[第十三章、四番目の山の民と、五番目の山の民]
この文章では触れませんが、長い平安時代をくぐり抜け、次の政権に踊り出るのは
ご存知、四番目の山の民、坂東は毛野国が担いだ頼朝の鎌倉幕府です
この坂東武者、日本狭しと疾走し、戦さに戦さを重ねましたが、
その戦さには皆々、誇りと誉れが貫かれていました
それを綴った平家物語に、我ら縄文人の末が涙するのは、山の民・坂東武者に、己が美学を見るからです

その後も武家政権が様々に、群がり織りなし、
遂には制度疲労と硬直が重なった幕末に、これを突き動かしたのは、
五番目の山の民である、神武の兄弟・薩摩隼人と、長宗我部の遺臣・坂本龍馬
これが長州と結んだ、明治維新の夜明けです

お分かりでしょうか?
一番目から五番目まで、山の民が動いた時、そして日本の歴史が鳴動した時、
あなたの胸は打ち震え、わなないた筈です
これは、縄文人と山の民、蘇我氏とその末の我々が、元来、誉れと美学と自由の民だからです

他方・・・
私は相撲を見て思うのです
寸鉄を帯びず、礼に始まり礼に終わる、その土俵に、
刃物を褌に隠し持ち登場したのが、百済人豊璋、藤原氏ではなかったか、と
古代豪族、山の民は、赤子の手をひねるが如く、滅んでいったのです
かくして朝堂は藤原一色となりますが、これは藤原氏内の新たな闘争の始まりでした
不比等の後、四人の息子に分かれた、北家、南家、式家、京家の抗争は、北家が勝利し、
この北家で再び藤原一色となれば、またその中で暗闘が繰り返され、
残ったのが、現在の一条、二条、九条、近衛、鷹司の侯爵家です
この血脈が行った、暗殺、抹殺、弑逆、皆殺し、根絶やし、騙し、裏切り、罠、謀略、牽強付会、隠蔽、隠匿
狂った遺伝子、狂ったDNAと言わざるを得ません
この「藤原物語」、誉れや誇り、美学や自由は、微塵も感じません
藤原のゾンビは、山の民が作ったばかりの明治の血を吸って、息を吹き返しました
「侯爵家」は血筋を牛耳り、政界、官界、財界に浸透するのです
残念ですが、明治維新は失敗だった、と言わざるを得ません

[第十四章、神道]
最後に、私の本貫、神道です
神道とは如何なるものか?
神道には、善悪はありません
善悪は、紙の裏表で、単独では存在しえない物なのです
地震・雷・火事・親父には、善悪は元より、前後も、脈絡もありません
ただ怒り、ひたすら怒り、怒るだけ怒れば、その後には豊穣の恵みが待っているのです
台風の後には収穫の秋が来、
洪水の後には肥えた土地が残り、
雷の後に稲穂が実るのは、稲と稲妻が夫婦(めおと)の営みを終えたからです
親父だって、怒るだけ怒れば、その後必ず、小遣いをくれます

今の神道は、中臣神道であり、藤原氏がねじ曲げたものです
どう、ねじ曲げたか?
物の表と裏、善と悪を分けだしたのです、藤原が善、蘇我が悪と
加えて明治、列強に伍する為とは云え、一神教が加味されました、皇国史観です
これではキリスト教と同じになります
西洋文明に付き物の、神と悪魔、砂漠の星空、チリひとつ無い、無限の空間で生まれた宗教です
これが為、人は見向きもしなくなり、
藤原の平安時代に入るや否や、役小角修験道を始め、民間では稲荷神社が広まったのです

ここに、私の四十年の謎も、氷解しました
この世には、善も悪も無いのです!
本来一つのものを、無理やり分けるから、Alienationが起きるのです
元来一つだった生産と消費が、資本主義と産業革命貨幣経済により分離・分割され、似ても似つかぬ別物になりました
消費は麻薬と化し、より大きな消費に渇え、
生産からは創造と喜びが去勢され、奴隷労働に堕しました
かくして人生は、感覚を喪失し、バーチャル空間を漂い、人を殺しても実感がありません
結果、悪は悪の限りを知らず、善は善の棲家を知りません

そして我ら、縄文の山の民、蘇我氏の末裔は、誉れと美学と自由の民であった、と申しましたが、ひそかに願う思いがあるのです
個人主義の裏にくっついて来た自由ではなく、Free fromの自由ではなく、
誉れと美学が突き動かす、神道の自由、自然(じねん)・自然(しぜん)があるのでは、と

[エピローグ:学者は何故無能か?]
わずか紀元3世紀の歴史、こんな近い時代の記憶を喪失した国は、日本だけです
日本の古代史がこれだけ迷走し、日本人が歴史を失い、自分を失った責任は誰にあるのでしょうか?

勿論不比等による歴史改竄で、歴史書が何が何だか分からなくなったのが、第一です
しかし問題はその次です
その書は、私のような素人でも、すぐにおかしいと気が付く代物です
そんなストーリーを、疑問も持たず素直に信じる歴史学者が、私には信じられないのです

答えを云いましょうか
国語学者」が歴史をやっているからです
古典や書記を読むのは国語学だから、書紀の内容即ち歴史も国語の範疇に入ってしまったのです
科学者は疑問を持ち、実験や観察を行います
社会科学者や本来の歴史学者は、フィールド調査や取材を行い思考を重ね結論を導く筈です
ところが国語学即ち「文学」は動かず労せず何もせず、感動し同情するのが仕事です
その感性を競い、自慢して満足なのです
疑問・実験・観察・調査は、ハナから脳裏に無い人種、それに仕事を任せたのが間違いだったのです
つまり、日本には歴史学者は居ないのです

勿論国語学者にも優秀な人は居ます、本居宣長です
彼は平安時代の文献も隈なく精査しています
そこから彼が得た「邪馬台国擬僭説」は、本論の邪馬台国論と同一で、既に決着は付いているのです
ただそれは昔の話であり、明治以降の人材は国語学歴史学には行きません
例えば以前テレビで、著名な国語学者のエチモロジーの発言を聞いたことがあります
くるぶしは何故くるぶしか、と云う質問に答えて云うには
足先は泥にまみれて黒い、だから最初は黒い節、黒節だったが、これが訛りくるぶしと
これが国語学、これが文学です、その場限りの当て推量だけの世界です
書紀の解釈はこの手の物ばかりです
一方言語学者はウラルアルタイ語を調べ、クルが既に節の意味を持つと、調査結果を提示しています

更に、朝日新聞現象があります
民主主義とリベラリズムの旗手、と知られる朝日新聞ですが、
戦前は勝った勝ったの提灯記事、煽動記事の先頭を走って、販売部数をトップにのし上げたのをご存知ですか?
古代史学も戦前の皇国史観から一転、戦後はこれの全面否定だけが学問となったのです
実証されないものは存在しないと、競馬馬の目隠し状態で、極論を突っ走っています

もう一つ、これは現在という時代に立つ我々には気が付きにくいのですが、
学者も官僚制度の一部であり、その官僚制度・権力構造が、藤原の縛りの内側にある、と云うことだと思います、既に述べましたが
政界、官界、財界の人脈を見れば、トップや大御所には必ずと云って良いほど、藤原人脈があります
そこで本稿のような「藤原罵倒論」を唱えれば、どうなるか?
必ず干されて、教授の椅子は決してやって来ません