ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

邪馬台国は熊本県、伊藤雅文氏

f:id:ondonpi:20180222144449j:plain古代に分け入り追っていけば、邪馬台国畿内説は荒唐無稽とすぐ分かる
確かに、魏志倭人伝日本書紀しか読まなければ畿内説になる、とは思う
 
その魏志倭人伝だが、伊藤雅文氏は、邪馬台国は熊本と、あっと驚く快刀乱麻、中国文献の読みの深さ広さを見せた
漢学者の魏志倭人伝論を見た事もあるが、上から目線だけで、魏志倭人伝を馬鹿にすればするほど、自分が偉くなると思っている論調で、内容は無かった
その意味でも、伊藤氏は偉い
 
その魏志倭人伝、改めて読んで思ったのは、その記述の完璧さ、簡潔さ、美しさだ
僅か二千字余りに、国々への里数、位置、戸数、政治体制、国際関係、経済交易、生業風俗を、まじまじと彷彿させて余りある
(これだけサービスして戴き、加えて遡る漢代の記述と、下る南北朝の宋代の記述が残る
後はその間を日本書紀で埋めれば、日本古代は嫌でも浮かぶ
勿論、古墳と神社と伝承の分析や、考古学の成果は感謝この上ない)
その魏志倭人伝と合わせて、かねてよりの自説を補強したい
 
1)誰もが驚くその最初は、倭人伝のその里数だ
帯方郡から七千里で狗邪韓国、千里で対馬国、千里で一大国、千里で末盧国、五百里で伊都国、百里で奴国、百里で不彌国と続く
これでは後を読もうという気が無くなる
その里数だが、伊藤氏は一里は70mと言う
そうすると倭人伝は、帯方郡(ソウル)から490kmで狗邪韓国(釜山)、70kmで対馬国(対馬)、70kmで一大国(壱岐)、70kmで末盧国(唐津)、35kmで伊都国(糸島市)、7kmで奴国(福岡市)、7kmで不彌国(博多)となって納得の数字になる
 
2)進む前に、倭人伝は、狗邪韓国を倭国と認識している事に驚く
狗邪韓国を北岸と書き、朝鮮は倭と接していると書いているからだ
私も丹後王国を調べた時、朝鮮南岸は倭人で溢れており、ここは倭ではないかと思った
そうすると貿易ではなく、国内流通になるからだ
倭王武も、北は九十五ヶ国を平定と言っているが、これとも符合するのだ
(これは二言目に渡来人と叫ぶ学者とも異なるし、楽浪郡は出張所であり征服されたのではないと言い張り、ましてや朝鮮に一寸たりとも倭の地は無かったと言い張る韓国人とも、異なる立場に私は立つ)
 
3)さて魏志倭人伝の問題中の問題、水行二十日で投馬国・水行十日陸行一月で邪馬台国、との記載、これに学者は長く悩まされ、分裂した
為に邪馬台国は、東は大和から南は沖縄迄、日本各所に比定され、未だに決着していない
私は不思議に思う、倭人伝ではこの行程の最後に、合計で万二千里と記しており、これから不彌国迄を引くと、千三百里になるではないか
これを分けて例えば六百里と七百里にすれば、不彌国(博多)からの行程は、42kmで投馬国(吉野ケ里)、49kmで邪馬台国(熊本)と判明する
その六百里を水行二十日、七百里を水行十日陸行一月と書いたのは何故か、これを伊藤氏は、宋代の時代背景から解読し、善意の改竄と、喝破したのだ
邪馬台国は北九州のどこか、とは思っていたがこれですっきりした
 
3のおまけ)
この部分は後日の挿入したものです
詳しくは伊藤雅文氏に譲り、大まかに述べます
 
さて魏志倭人伝には「邪馬台国は会稽東治の東」と事もなげに記されている
私は不思議に思う、全行程万ニ千里と共に、学者は何故これを言わないのか、と
中国の江蘇省に会稽東治と言う土地がある
揚子江の河口で、紹興酒の産地に近い
実はその真東に、熊本がある
この時点でいくつも驚く
この時期に、緯度の概念はあったのか?、と
もう一つこれは、漢代と魏のこの時代、政治的安定の元での、東シナ海の豊かな交流を意味している
邪馬台国が会稽東治の東だと言う事は、これらを踏まえなければあり得ない
魏志倭人伝に現れる魏の官吏は、人跡未踏の南極大陸に行ったのではなく、逞しい民間交流の足跡をなぞっただけ、という事なのだ
従って本来の魏志倭人伝には「不彌国(博多)からは百里投馬国(吉野ケ里)、百里邪馬台国(熊本)、帯方群から合計万ニ千里」と書いてあった、筈である
西晋陳寿三国志を書いた280年に、この事を疑う者はいなかった
 
ところがその後五湖十六国と南北朝の混乱時代に入り、東シナ海の交流が絶え、「邪馬台国は会稽東治の東」の常識が実感から消え、文献上だけの存在になった
困った事に、福建省に会稽東冶と言う似た地名がある
さんずいとにすいの、点一つの違いで、誠に紛らわしい
その会稽東冶は福建省なのでぐっと下り、その東は熊本ではなく、距離的には沖縄辺りまで遠のく
決定的だったのは、432年に後漢書を書いた宋の范曄がその中で、「邪馬台国は会稽東冶の東」としてしまったのだ
勿論彼も悩んだと思うが、既に実感は失われ実証不可能であり、机の上だけで考えた結果なのだろう
いずれにせよこれが国の、公式見解になってしまった
(つまり文部省検定済になった)
そうすると本来の魏志倭人伝の「不彌国から百里投馬国、百里邪馬台国」ではとても「会稽東冶」まで届かない
仕方なく、魏志倭人伝をいじらなければならなくなった
それでその里程、六百里を水行二十日、七百里を水行十日陸行一月として、水増しした
 
(話はそれるが、西晋陳寿280年に三国志を書き、宋の范曄が432年に後漢書を書いた、と言う事に疑問を持たれたろうか?
王朝は後漢の後が魏なのに、正史は三国志が先に出来て後漢書が後に書かれた
大逆転している
五湖十六国と南北朝の混乱が、ここにもある
まして「邪馬台国は会稽東治の東」か「会稽東冶の東」かなど分からなくなって当然、そもそもその間150年に亘り、二十個ほどの王朝に跨っている)
 
4)倭人伝が記す戸数も、古代を考える時、国力や軍事力を考える時、重要な数だ
奴国がニ万戸、投馬国が五万戸、邪馬台国が七万戸で、他は数千戸が並ぶ
村の規模、村の大きさなのだ
戸数最大の邪馬台国が、北九州を統一した事がよく理解できるし、当時の戦争がどのような物だったかを推しはかるよすがになる
 
5)同じく漢書で、朝貢し金印を授受した奴国だが、この時期は邪馬台国支配下に降っている事も分かる
倭人伝では、各国の政体も漏らさない
王は邪馬台国だけで、他の国は皆、官と副官だけが列記されている
 
6)狗奴国は問題だ、邪馬台国の配下にない
北九州の弥生人は、稲作が出来ないシラス台地の南九州には興味を示さず、進出しなかった
そこに在る薩摩日向こそ、独立国の狗奴国の立地があると思われる
それ故にこそ、こ薩摩隼人後の歴史や神武天皇に係わって来る事になる
 
7)倭人伝の最後に列記されるあまたの旁国は、上のように見てくれば九州が尽き、四国中国の国々であり、邪馬台国の範疇外である事も分かる
そこには出雲や丹後王国が、海路による交易にいそしんでいたのだ
後は私のブログ、「消された縄文、丹後王国」に続きます