邪馬台国は熊本県、伊藤雅文氏
その意味でも、伊藤氏は偉い
その魏志倭人伝、改めて読んで思ったのは、その記述の完璧さ、簡潔さ、美しさだ
僅か二千字余りに、国々への里数、位置、戸数、政治体制、国際関係、経済交易、生業風俗を、まじまじと彷彿させて余りある
(これだけサービスして戴き、加えて遡る漢代の記述と、下る南北朝の宋代の記述が残る
後はその間を日本書紀で埋めれば、日本古代は嫌でも浮かぶ
勿論、古墳と神社と伝承の分析や、考古学の成果は感謝この上ない)
その魏志倭人伝と合わせて、かねてよりの自説を補強したい
狗邪韓国を北岸と書き、朝鮮は倭と接していると書いているからだ
私も丹後王国を調べた時、朝鮮南岸は倭人で溢れており、ここは倭ではないかと思った
そうすると貿易ではなく、国内流通になるからだ
倭王武も、北は九十五ヶ国を平定と言っているが、これとも符合するのだ
(これは二言目に渡来人と叫ぶ学者とも異なるし、楽浪郡は出張所であり征服されたのではないと言い張り、ましてや朝鮮に一寸たりとも倭の地は無かったと言い張る韓国人とも、異なる立場に私は立つ)
3のおまけ)
この部分は後日の挿入したものです
詳しくは伊藤雅文氏に譲り、大まかに述べます
私は不思議に思う、全行程万ニ千里と共に、学者は何故これを言わないのか、と
中国の江蘇省に会稽東治と言う土地がある
実はその真東に、熊本がある
この時点でいくつも驚く
この時期に、緯度の概念はあったのか?、と
もう一つこれは、漢代と魏のこの時代、政治的安定の元での、東シナ海の豊かな交流を意味している
邪馬台国が会稽東治の東だと言う事は、これらを踏まえなければあり得ない
困った事に、福建省に会稽東冶と言う似た地名がある
さんずいとにすいの、点一つの違いで、誠に紛らわしい
その会稽東冶は福建省なのでぐっと下り、その東は熊本ではなく、距離的には沖縄辺りまで遠のく
勿論彼も悩んだと思うが、既に実感は失われ実証不可能であり、机の上だけで考えた結果なのだろう
いずれにせよこれが国の、公式見解になってしまった
(つまり文部省検定済になった)
仕方なく、魏志倭人伝をいじらなければならなくなった
大逆転している
五湖十六国と南北朝の混乱が、ここにもある
まして「邪馬台国は会稽東治の東」か「会稽東冶の東」かなど分からなくなって当然、そもそもその間150年に亘り、二十個ほどの王朝に跨っている)
4)倭人伝が記す戸数も、古代を考える時、国力や軍事力を考える時、重要な数だ
奴国がニ万戸、投馬国が五万戸、邪馬台国が七万戸で、他は数千戸が並ぶ
村の規模、村の大きさなのだ
倭人伝では、各国の政体も漏らさない
王は邪馬台国だけで、他の国は皆、官と副官だけが列記されている
6)狗奴国は問題だ、邪馬台国の配下にない
北九州の弥生人は、稲作が出来ないシラス台地の南九州には興味を示さず、進出しなかった
そこに在る薩摩日向こそ、独立国の狗奴国の立地があると思われる
そこには出雲や丹後王国が、海路による交易にいそしんでいたのだ
後は私のブログ、「消された縄文、丹後王国」に続きます