一向一揆
○○様
この夏に故郷に帰り、亡き父の報恩講をもうしました。その時に、私が師事するお坊様と親しく話す事ができ、幾つかの本とヒントを教わりました。私が長らく疑問に思っていた、越の国の、ひいては日本の、凡そ鎌倉時代以降ではありますが、何が起こっていたのかが、分かったような気がします。久々に、気分が高揚しています。
あなた様がいつか言っていらっしゃいましたね、「一向一揆」に興味があると。さて、一向一揆そのものは、私は二百年遅れの鎌倉時代であった、と思います。「鉄」、であります。古代豪族の時代には権力者の占有物であったものが、平安時代を通じて、地方にも敷衍したのでしょう。鉄により大規模に私有地を広げた、土地の豪族たちの自覚と中央への不満は、地に満ちましたが、核がありません。一揆は不満だけでは成り立たず、火をつけるものがなくてはなりません。坂東ではこれが頼朝でした。そして、越の国では、一向宗がその役割を果たした、と言う基本は知っているつもりです。
私が分からなかったのは、その時の人々が、どのような気持ちをもって毎日を過ごしていたかということです。どのような気持ちを持っていれば、坂東挙兵、一向一揆のようなものが可能だったか、という事。これが分からなかったのです。宗教社会史といえます。
「一向一揆」。即ち、越中、加賀、越前、飛騨、三河、伊勢、安芸と。答えは、「時宗」でした。「親鸞」は手前勝手な一学者でしたでしょう。多少の布教で出来た信者も弱い上に四分五裂の有様。その一派の中で弱小派閥を引き継いだ蓮如が、事実上、「真宗」を作ったのですが、問題はその手法でした。教義上の親鸞全面否定、これに換えるに己の血脈を当て、組織上の足利将軍家べったり。そして、これが大事な事なのですが、「時宗」の組織をそっくり乗っ取ったのです。現代の日本から、時宗が欠落しているのを不思議に思った事はありませんでしょうか。かくして、日本の最大宗派になったのです。「井上鋭夫」は「古真宗」と言っていますが、この古真宗とは、時宗であり、一向宗とは、そのひたすらの信心に、余人が名付けた、当時の別称だったようです。そして、一向一揆は教団を持たぬ時宗の信徒が、同じ南無阿弥陀仏を唱える真宗の、そのリーダーの蓮如に期待をかけたらしいのですが、その蓮如の余りに体制寄りな性格に絶望し、これを見限った絶縁状が、一揆という答えでした。
言うまでもありませんが、一遍とその弟子真教が広めた民衆は、海の民、川の民、山の民です。海と川と山を繋げば、一遍と真教の布教線と重なります。思うに真教その人は、山岳信仰・山伏だったのではないかと。その山伏のルート、同族の手引きが、布教線だったと。海川山の民を対象とした宗教は、時宗、真宗、日蓮宗、曹洞宗などがある訳ですが、この中で、時宗のみがあのような性質を持ち、意外にも、最も行動的と思われた法華経からは、何も生まれず、その逆に、猫のようにおとなしい阿弥陀信仰から、激情はほと走るのですね。厭離穢土に象徴されるように、現実否定の感覚が簡単に生まれる事、一神教的な阿弥陀信仰は、現実の権力や体制を嫌悪し、そして欣求浄土は、意外にも、この世に浄土を作ろう、即ち「一揆」という発想が生まれます。法華経は、馬鹿に見せる経典ではありません。「お前は偉い、何もしなくても偉い」、と全編に亘り繰り返されると、その結果、努力もしないで口だけの民、言い訳だけの民が出来てしまいましたね。自分と現実を、否定する宗教と、肯定する宗教の差が、くっきりと現れた、歴史上の不思議です。
そして、高度な技術を身に付けた民、仕事を金儲けではなく天職と思う、真摯な真宗のエートスの民、これこそが明治維新の成功の鍵だと思われてなりません。他所で西洋文明を取り入れて成功した国はないからです。明治維新は薩長の、一握りの法螺吹きだけで成し得た物ではないのです。ご存知ですか、「女工哀史」「野麦峠」の出身地を。工場は信州だろうが上州だろうが、半分以上が真宗地帯からの出稼ぎで占められているのです。娘が持ち帰った一円金貨を仏壇に供え、「これで正月が越せる」と、娘に向かって手を合わせ、涙した親。私は、マックスウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を言っています。真宗は、この土壌を醸成したのです。