ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

農業の生産性

以前、納豆を作った
自分で作って、わくわくした
大豆を煮て、納豆1パックを混ぜ、温箱で2昼夜
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本当に出来た!
びっくりし、感動し、たくさん食べた
他にも、味噌、どぶろく、糠漬け、梅干、ヨーグルト、パン、ピザなど、製作費タダのこの温箱でたくさん作った
毎日が楽しくて、たまらなかった・・・
(今でも一つ意味があると思うのは、生きる実感であり、自分の足裏がどこに着いているか、生まれて初めて知った幸せだった)

所で大豆は幾らか、ご存知だろうか
(勿論自分で作ったのだが、鳩に困って買った)
スーパーは小量で割高だが、1kg単位ならネットで千円位、グラム1円になる、5kg以上なら送料もかからなかった
で、スーパーの納豆は3パック150gで75円位だ
つまりグラム0.5円だ
勿論これは、納豆菌、醗酵、パッキング、搬送費、小売店経費、利益などなどを含めて0.5円だ
ある時これに気が付いて、愕然とした
お分かりだろうか、私の納豆は作れば作るほど赤字になる、価格破壊だ、参入障壁だ

ブログでも書いたが、野菜でもそうだった
自分の野菜を笊に並べ100円ショップをやったが、最高が100円玉16個だった
経済的にはまったく、ナンセンスだった

都会から、就農を目指しての移住があると聞く
これを受入れる田舎側だが、有機農業とか自然農法とか聞くと硬直し拒否するそうだ
生産性が低すぎて、経済的挫折は明らかだからだ
言う迄もないが有機農法では、二股の大根、背割れした人参、あばたつらのじゃが芋で、売り物になるのは10の内1つ、自給自足以外の意味は無い
現在の生産性は、機械と化学肥料と農薬で維持されている
(話しはそれるが、別のブログで書いた吉田俊道氏の醗酵農法は有機農法でありながら、現実の価格と競える生産性を実現した事、ここに重大な意味がある)
産業や工業の生産性は高いと誰でも知っているが、農業や食品の生産性ももはや、素人の能力や想像が及ばぬ世界を飛行している

ちなみに長らく生産性の低かった流通業界も、それ迄の保護規制が解かれ大店法が出来たら一瞬のうちに、個人商店の駅前はシャッター街になった
その流通、現在は勿論会社、企業が取った
AeonにしろAmazonにしろ、気の遠くなるような大企業だ

私は、生産性の話をしている
不思議な事に、食品も農産物も流通も、個人がやると生産性は低いが、会社企業がやると跳ね上がる、何故だろう?
米作りも、昔から長らく個人農家の手になり、生産性は極めて低い
よく外国米との競争が、引き合いに出される
多分、会社企業が進出し経営すれば、状況は一変すると思う、上の例からすれば
そうならないのは、実は法律のせいだ
食糧と医療から、企業は締め出されている
企業は農地を買えないし、医師以外は病院長になれない
食と医は恐ろしくて、企業に任せられない、任せたら何をするか分からないからだ
現にアメリカでは遺伝子組換が始まり案の定、悪魔が表通りを歩きだした
中国医療では、人体実験が起きているらしい
(何でこんな事が起きるか?
殺らなければ、殺られるからだ
これが資本主義の、最大の欠陥だろう)

そんな中でたまたま、営農の中を覗く機会があった
営農組合とは、人口が東京に流れ、残った少ない働き手を補う為、作業を請負うものだと、ぼんやり思っていた
所が年度の収支報告書を見てびっくり、営農から農家へ土地の賃借料が支払われていた
つまり農家は、農業ではなく、賃貸料収入、不動産経営をしている事になる
確定申告も、農業所得ではなく、不動産賃貸料の欄に記入する
農家が、不動産屋に化けていた
その賃貸、県の公的機関が仲介する形を取る
野放しにすると、0円になるのは知れているからだろう
つまりは営農とは、農林官僚の知恵の雫だった!?
個人を相手にした農協の退潮は、それが理由だったのだ
農協の代わりに地域にコメリが居るのも、納得できる

ショックで暫く考えられなかったが、日がたった
この営農、いい!
農家数十件で成り立つ営農は、トラクターが所有できるし、それを運転しての耕作と収穫は楽しいし、ドローンで農薬散布するから面白いし、地域の人に仕事を提供し日当が払えて喜んで貰える
個人農家より、先ず生産性が向上している
次に各人は経営の重荷や不確定要素から開放され、気楽この上ない
すべての人が、社長になりたいと思っている訳ではない
またその性格上、鋭く営利を追求する必要もない
殺らなくても、殺られないからだ

(もう一つ重大な、追伸)
この営農、意外な副産物が生まれている
かつての自作農、家族農の時には、親は勿論、年寄り子供、猫まで働いた
くったくたになる迄働き、泥のように疲れても、労働に対する給与や賃金、と言う発想はついぞ生まれなかった
年に一度の米収入と一緒くたになり、区別が付く筋合いの物ではなかった
(今から考えると何でそんな過酷な、と思うだろうが、小作人に比べれば天国だった
自分の収入が、初めて自分の物になった)

営農ではこれが、嫌でも分離された
営農で働く人は勿論そこの村人が普通だが、都合が付かずよその人の場合もある
また作業対象の田圃は、自分のも少しあるが、殆どは仲間とはいえ他人の物だ
正確に言えば県から又借りしている賃借地であり、自分のも含めて後日対価を請求される所の、人の土地だ
且つトラクター操作の、耕作、田植え、農薬散布、収穫は大忙しで、当然賃金無しは有り得ない
と言うか、賃金を明確にしなければ、誰も働けない仕組みになった

細かい仕事も多い
月一度だが重労働の畦草刈りや、短時間だが毎日の田の水調節もある
多くはその田の本来の所有者が担うが、これらも時間や日数に換算して賃金が計上され、いいアルバイトになる
昔だったら完全にゼロ査定だった細かい仕事にも、やり甲斐が生まれた
こんなうまいやり方、誰が考えたのだろう?
農林官僚?
やるじゃない

ただ一つ、同時に気が付くべき事がある
農業と農作業と農家と先祖伝来の土地のパーツがすべて分離され金銭で計量化された以上、今後はパーツ交換も合成も簡単になる、と言う事
別の言葉で言えば、今後は資本市場のマーケットに晒し、売り買いの準備は万端整った、と
恐ろしい事、でもある