ondonpiのブログ

山と川の間に迷い込み、掘立小屋で自炊し、猫の額ほどの畑で自給し、大脳と小脳の世界に遊びます・・・

奇跡のリンゴ、杉山修一氏が解けば

奇跡のリンゴで有名な木村秋則氏の言う自然栽培、これの科学的な解説書を、杉山修一氏が著しました
私は自然栽培がどのような作業の過程か、具体的には知りません
またこれに似たものに、福岡正信氏の自然農法、川口由一氏の自然農があり、その違いも分かりませんでした

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[江戸時代]
先ず江戸時代の農業ですが、化学肥料と農薬は勿論無く、堆肥や糞尿で、品種改良は適地選別の積み上げでした
ヨーロッパでも、麦は肥料喰いなので、麦畑の他に、放牧地つまり牛糞などで肥料を補い、休耕地を交え、これを三年で回転させる三圃農業が行われました
 
それが現在、アメリカ発祥の「緑の革命」、化学肥料と農薬と品種改良に依る形に一変しました
これで収量が一挙に数倍、十数倍になり、従来農法は駆逐されます
この特徴は野菜が、大きく形が揃う事です
スーパーで見かける通りです
味も変わり、アクやコクが消えました
そして私見ですが、アトピーやアレルギー、つまり免疫不全症が世界中に広がります
加えて遺伝子組換えが始まりました
これは害虫対策と雑草対策が目的です
野菜にあらかじめ遺伝子操作を施し、農薬耐性を持たせ、しかる後にその農薬をやれば、虫と雑草は死ぬが、野菜だけが生き残ると言うものです
もはやこれは、死の光景ではないでしょうか?
これがアメリカ、カナダ、ブラジルで行われ、はけ口を求めています
 
[福岡正信氏の自然農法]
この緑の革命でアメリカは悪魔の巨大農業国になりましたが、これを批判し「沈黙の春」を著したレイチェルカーソンが現れたのは、大きなアメリカの小さな良心でしょうか
でも彼女の後を追うアメリカ人は居ないようです
日本では福岡正信氏の自然農法が嚆矢でした
無肥料・無農薬・無耕起(不耕起)・無除草(叢生栽培)を唱えました
ただこれは余りにも衝撃的で、何もしない放置農業との区別が分かりません
この農法は、誰にも引き継がれず消えました
私ごとですが、若い時愛媛県に行き、氏に会いました
その横顔と感動、今でも覚えています
 
[川口由一氏の自然農]
川口由一氏の自然農になると、具体性を帯びます
無肥料・無農薬・不耕起迄は同じですが、苗を育て、周辺の草は刈ります
草との距離感が微妙で、この農法の肝です
当人は、虫や草を敵としない、と言います
私はこれを4年間試みましたが、夏場の草対策は鋸鎌だけでは追い付かず、平鍬ではつる糸川式を発見しました
書やネットだけで、実際の手ほどきを受けられなかったのもありますが、私以外にも離れていく人を知っています
極度に労働集約的で家庭菜園規模を越えられず、何か宗教の匂いが漂い、自分で考え、自分で歩けない気がします
 
そして今広がりを見せているのは、有機農業でしょう
無農薬・無化学肥料がスローガンです
有機肥料を施し、耕し、除草します
有機肥料は化学肥料程は虫を呼ばないから、かろうじて無農薬が成り立ちます
 
[有機農法での失敗]
さて本論ですが、木村秋則氏の自然栽培がどう言う物か、以下は杉山修一氏に依ります
木村氏は無農薬の8年間、酢や焼酎を害虫駆除に散布しています
この発想は有機農法であり、木村氏は有機農法でスタートしたのです
有害な化学肥料ではなく有機肥料なら、有害な化学農薬ではなく有機剤散布なら、それなら良いだろうと言う発想は有機農法です
 
[かぐわしい土と自然栽培へ]
それからの転換が、死のうと向かった岩木山で発見した、かぐわしい土でした
同じ土を再現する為、今迄の堆肥をやめ、大豆や麦を植えます
つまり人間が直接土に窒素肥料を与える有機農法ではなく、人間は直接手を下さずその役割を植物に委ね間接的にコントロールします
氏は後日、不完熟堆肥が産む硝酸態窒素でブルーベビー症候群が発生すると言っていますが、これは堆肥さえ拒み、有機農法と袂を分かち、別の世界即ち自然栽培に入った事を意味します
 
[叢生栽培と豊かな動植物相]
木村氏は大豆の根粒菌状態を見、その役目が終わったら、草を刈らず叢生栽培を始めます
同時に、無農薬なので虫を殺さず、無肥料なので害虫を呼ばず、草を刈らないので虫の棲家となり、植物相と昆虫相と微生物相が豊かになり、特定の害虫だけがはびこらないよう環境を誘導します
多様な環境を用意し、生物相の競争・捕食・寄生・相利を豊かにし、一つだけが突出する事を避けます
さあ、慣行農業、有機農法からは遠く離れました
草一本無い裸地こそ美田美畑の篤農家、或いは黒いビニールマルチに覆われて、動植物相は極度に単純化されています
この様な環境は、一つの害虫や病気が一挙に爆発しますが、これは自然が自然に戻そうと努力しているのです
 
[微生物相の窒素産生]
生物相が豊かになれば、微生物相も豊かになります
この微生物こそが、叢生栽培の大量の枯草や動物の死骸を分解して、硝酸イオンとアンモニアイオンに変え、植物に吸収され易い窒素を供給するのです
細かい事ですが、有機物の量もさる事ながら、それを分解する微生物の量と種類により、生産される窒素量が大きく変わります
例えば、有機物どころか化学窒素肥料その物を与えても最初の数年だけで、後は効かなくなる現象があります
これは窒素を自ら食べる微生物や、窒素をガスにして空中に放出する微生物が優位に立ち、野菜に行く窒素は少なくなるからです
化学肥料は、それに対応する微生物相を招き、自然は中和の方向に働いてしまうのです
 
[微生物相を誘導]
微生物相の細かいコントロールが続きます
木村氏の鋭い眼は、微生物に安住しません
植物には成長の早い遅いがあり、成長の速いものは多くの窒素必要とし、遅いものは窒素が少なくても生育できます
すると、植物相は遅いものが最後に勝つ事になります
窒素が少なくても生きて行けるからです
困るのは微生物相がこれに対応し、少ない窒素しか作らない微生物相が優位になり、窒素不足状態になる事です
それを察知したら、人間がこれを壊して撹拌し自然を誘導する事、これが自然栽培の動作です
これ、実は昔から行われています、里山です
放っておけば針葉樹林の暗い林になるので、時折これを切ったり焼いたりして、クヌギやコナラの二次林、つまり里山を維持するのです
自然栽培は里山農法では、と杉山氏は言います
自然栽培は、植物一本ではなく、植物相を栽培しコントロールしているからです
自然を栽培するのが、自然栽培です
 
[コミュニケーションと虫]
植物間のコミュニケーション、植物と虫のコミュニケーションがあると杉山氏は言います
タンニンやニコチンなどは、植物が虫害から守る為の忌棄物質で、虫が来れば産生されます
この時、攻撃された野菜の隣の野菜もタンニンやニコチンを産生し始めるのです
つまり植物はコミュニケーションすると言う事ですが、これが本来の自然状態つまり自然栽培では健全に作動するようになります
攻撃された植物がアルコール物質を放ち、これに隣の植物が反応するのだそうです
同じくこのアルコール物質が、天敵の蜂に救助を呼ぶ作用もあるのだそうです
これが植物が自然状態に置かれると、本来性を発揮するようです
 
[病原菌と自己免疫]
化学肥料をやると、植物は簡単に肥大し弱い体になり病気にかかり易くなり、虫や微生物の格好の的になります
肥料をやらないとその逆に、言うならば固太りの健康体に育ちます、ただ不格好ですが
同じく、植物が本来持っている自己免疫も健全に発揮されます
木村氏が言います、斑点落葉病にかかった葉が、自らその部分だけを切り落とし、葉に穴が空いて自分を守っていると
この現象つまり自己免疫も、有機農法から自然栽培に移行したら発動し始めたと

ネズミ退治

ネズミの事も、何も知らなかった
最初はじゃが芋だった
収穫したじゃが芋を、一斗缶に入れ部屋に置いた
びっしり汗をかき、腐り始めたので、慌てて籠に入れた
それから数週間、天井裏でネズミの運動会が聞こえて来た
じゃが芋は喰い散らされ、周りは糞だらけ、気持ち悪くなった
じゃが芋を米袋に、紙が何重にもなった丈夫で通気性もある物、これに詰め替えた
 
一方ネズミ退治の、殺鼠剤を買った
小袋が沢山、入っている
その小袋をそのまま、ネズミの通路に置いても効果はある、ネズミの多い場合は
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でもネズミが少ない場合は、その小袋、喰いちぎってくれない
そこで一考、小袋を破り、米粒状の中身をネズミの通路に置いた
おお翌日、その米粒状、一つも無いではないか!、完食だ
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じゃが芋より好物は、米だ
米は一斗缶やペール缶など、金属缶でもOKだ、これに入れる
ちなみにネズミは、大豆には興味が無いようだ
 
もう一つ、私は肥料や燻炭の為に、糠や籾殻も持っているのだが、これにも反応する
ビニール袋は簡単に、喰いちぎられる
これは量が多いので、それを金属の缶に入れるなら、ドラム缶数本が必要なのだろうが、そんな物、持っていないし、また扱いにくい
その周りに、殺鼠剤を撒いても切りがない
困った・・・

喘息

最近暖かかくなり、夜中に汗ばんで、目が覚めた
その後喘息が始まり、寝られなくなった
体全体で咳込むので、体力が奪われていく
苦しくて起きれば、体が痒い事に気が付いた
トイレ束子で体を掻いた、掻き出すと痒い場所が広がり、体中くまなく掻いた
そしたらあら不思議、喘息が止まった、少しは咳が残るが、苦しさはグッと軽い
助かったぁ〜

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ちなみにこの昔ながらの、棕櫚のトイレ束子は良い、掻けば痒みが止まるからだ
爪で掻いて困るのは、痒みが止まらず、血が出、続ければ皮膚が象皮になる事だ
この棕櫚束子は、是非に、特別に、広くお勧めしたい
 
さて原因だが、分かっている
ヤマザキの大福だ、二つも食べたのが原因だ
 
私は食品添加物のアレルギーで、スーパーのビニール包装品は全部アウトだ
ビニール包装は会社が作った物であり、会社は必ず食品添加物を入れる
そのビニール包装は、スーパーに並んでいる物の99パーセントであり、残りは大根、人参・・・、だけだ
 
次に添加物の含有量だが、物によりメーカーにより異なる事に気が付いた
ヤマザキパンは、30分から2時間で痒くなるが、Pascoは殆痒くならない
街のフランスパン店で聞いたら、ヤマザキは特殊で強力な、何某と言う物を使っていると言っていた
業界では有名な事らしい
またヤマザキはパンだけでなく、菓子や菓子パンで独占状態にあるのは、その添加物が理由だろうと思う
添加物のお陰で、低価格が実現できたのだ
 
結論だが、ヤマザキの大福二つは、私の致死量だと知った
私のような人は多い
長野県辰野町の「月のもり」も、子供のアトピーで引っ越しした人が始めた自然菜園の民宿だ
やはり料理店経営の人だが、子供のアトピーに苦しみ、知人に誘われオーストラリアへ行ったらトタンに快癒した、と言うのもそうだ
生きる為に日本料理店を始めたら、人気が出て大繁盛、と言うおまけ付きだった
 
私も、田舎に引っ越したらアトピーが治った
痒さから開放され、皮膚の象皮が消えた
本当に嬉しかったし、西洋医学の無能を憎んだ
只その他にも、花粉症、喘息、呼吸困難があり、改善したが完治とは行っていない

狩猟民族、稲作民族、交易海洋民

日本は、どうしてこうなのか?
日本人はその心、どこに置けば安心立命するのか?
日本とは何か、こればかり考えて来た
本ブログでも「出雲神話」に分け入り、「丹後王国」をのぞき込み、天皇のルーツに迫った
日本とはと言っているが、実は自分の事だ
自分の心の、最も座りの良い位置が分からない

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よくある解説は、稲作民族、農耕民族と言うものだ
これは協調性や閉鎖性を説明するのに使われるが、演繹性がない
先ず我々自身が、閉鎖性を嫌っている
その閉鎖性の先に、自分の未来を置きたくない筈だ
次に高度成長期に、都会への民族大移動があっさり起きた
つまり故郷や先祖伝来の土地や風習に、拘泥されていない
もう一つ、短い弥生時代の稲作如きで民族性など決まるものだろうか
民族性は、もっと長い縄文ほどのタイムスパンが必要ではないだろうか
稲作民族理論は原理ではなく、単なる結果の修飾語でしか無い
 
対するヨーロッパは、狩猟民族と言われる
進取の気性や成功の歴史を羨む気持ち、畏敬する気持ちが込められている
この言葉にも、ヨーロッパ人の次の行動を見る力はなく、演繹性は無い
 
そんな折ふとした事から、思考が始まった
丹後王国を調べていた時、倭人高句麗の南下を受け、連戦連敗を喫しているのに改めて気がついた
丹後王国を知らない人は、書紀でもいい
度重なる朝鮮出兵が記されている
何故何度も出兵したのか?
負けたからだ、勝てば一回の出兵で済む
それも連戦連敗、百戦百敗だった
(これを繕う為に、朝鮮から勇猛な日本兵が請われたと言っている
つまり他人の戦争であり、自分が負けたのでは無いと言外に匂わせている)
魏志倭人伝を素直に読めば分かるように、又あの当時の鉄と交易を見れば分かるように、あの当時の朝鮮南岸は倭人の土地だった、と私は思っている
これが突如始まった高句麗の南下に対抗すべく出兵したのだが、歯も立たず負け続け、任那を最後にすべての土地と港を失い、敗戦の記憶も拭い去ったと
 
さて何故負けたのか、がこの文章のテーマになる
朝鮮半島は中央を山脈が走り、西は湿った風が山脈に当たり多雨で湿潤、東は山越えの乾いた風で冬は寒く土地は痩せている
西は豊かな稲作地帯、東は当然、遊牧、牧畜、騎馬の文化となる
そこで生まれる軍隊は、騎馬民族の騎馬軍団になる
 
その絵を見て驚いたのだが、騎馬武者は鉄タイルの鎧に身を包み、眼しか現れていない
それどころか馬までも、鉄タイルの鎧に覆われ、まるでアメリカの宇宙映画の戦士のようだ
次に驚くのはその戦さの、その方法その流儀だ
進めば馬で蹴散らし破竹の勢いで勝つのは当前だが、その地の畑と家畜を全部収奪し、自軍の食料にする
それではその地の人の食料が無くなるではと思うが構わない、皆殺しにするからだ
命乞いをする者は助けるが、次の戦争の最前線に立たせ、やはり殺す
蒙古襲来を思い起こせばいい、あの残忍さと同じだ
 
こんな戦争、どう思う?
騎馬民族と言い、狩猟民族と言うが、これが実態だ
こんな戦争、こんな民族、羨ましいだろうか?
ヨーロッパでは民族大移動と言い、言葉は綺麗だが、内実は皆殺しと放逐がその実態だ
これを知ってなお且つ、騎馬民族、狩猟民族に憧れるだろうか?
近年でもアメリカとオーストラリアで「民族大移動」が起きた
起きたのはインディアンとアボリジニーのジェノサイド、皆殺しで、それを「民族移動」「移民」と言い換えている
彼らの戦争や移動とは皆殺しであり、それを知らずに彼らと戦争などしてはならない
 
対する倭人の「出で立ち」は、頭こそ兜だが後は手甲と脚絆だけ、勝負にならない
海洋民は何処でもそうだが、戦さは下手だ
もう一つ勝負にならない理由は、倭人は夏だけで、季節風吹き荒れる冬の日本海を渡れない
冬の間に好きなように、港を蹂躙される
翌年の夏に兵を差し向けるが、冬にはまた取られる
これが何度もの出兵の、真相だと思う
 
縄文人は「交易海洋民」だと思う
これが長い縄文時代に、刷り込まれた縄文人のDNAではないだろうか
教科書に言う狩猟採集の文化だけでは、決して今の日本人は生まれない
交易と言うが、それは商人(あきんど)の事だ
商人とは、相手に喜んで貰ってナンボ
そこで初めて物々交換が成立する
戦争で入手する民族と、商いで入手する民族と言うふうに見ていけば、日本人の性質はトタンに見えて来ないだろうか
人の気持ちに敏感で、本体なら移動と自由を好む、そんな日本人を説明し、予測もできるのではないだろうか
移動と自由を縛ったのは、奈良平安の律令制武家政治、つまり稲作ではあったが、高度成長期で先祖返りを果たした、と思う
 
反対に勝った朝鮮は、その後どうなったか?
戦争には勝ったが、少数の搾取する貴族階級と、広汎な農奴だけから成る社会、その社会は完全に停滞し、20世紀まで続いた
ヨーロッパでも同じだった
民族大移動の後は、勝った者は貴族となり負けた者は農奴となり、暗く長い中世に突入している
 
私も漸く、自分の心の置き場所が見つかった気がしている
回りの人、疎遠を問わず、すがすがしく心地良くなって貰えるよう応対したい
目的や下心があるのでは無く、自分の為だ
そうする事が、自分の気持ちをすがすがしく保つ最短の方法だと思う
更には自分をそこに置けば、どの方向からの変化にも居ながらにして対応できそうに思う

夜中、突然、呼吸困難

もう、10年程も前からだろうか?
3時間程で、誠に嫌な夢と共に、夜中に目が覚める
 呼吸困難だ、死の恐怖だ
 
寝てられなくて、起きる
起きると、少し楽だ
外の空気を吸えば楽になるかと、冬の真夜中でも外に出る
人によっては、一晩中歩き回ると言うのもあるそうだが、心から分かる気がする
 
道志村は標高が高いので、余計息が苦しいように思われる
川崎の武蔵小杉では、毎晩は起きないからだ
隣の別荘の主人も、ここへ来ると息が苦しいと、同じ事を言う
 
呼吸の事だから、呼吸法の禅体操が良いのではと始めると、じきに苦しくなる
胸が鬱血する感じに襲われる
この体操は仰向けで、足を壁にもたせ掛けて高く上げ、胴が低くなるから的面だ
意外な所から、寝ると苦しい、胸が低いと苦しいと言う共通点が見つかる
どうも、寝るのと禅体操、共通点は胸の鬱血のような感じだ
 
ちなみに私は、重度の花粉症で、食品添加物の重度のアトピーでもあるから、その方面の喘息と言うのが、ネットに沢山見つかる
これは分からないし、気管支と言う感じは今の所、していない
それより胸が小さくなった、と言う感じか
 
恐怖に突き落とされるこの呼吸困難だが、意外な助け舟がある、朝日だ
不思議な事に、朝日が出ると呼吸困難にはならず、初めて安心して寝付く事ができる
つまり、9時に寝て12時に目が覚め、苦しく不安な長い時間を耐え、6時の朝日を見てようやく安心して眠れる、と言う毎日だ
喘息持ちで禅体操を考案した樺島勝徳氏も、同じ事を言う、朝日だけが命の綱だったと
 
道志を売り払い、武蔵小杉に帰り、そこの市民菜園を借りようか!?

花粉症

花粉症の季節が来ました
例年なら、立春と同時にやってくるのに、今年は寒く長い冬の後、一ヶ月遅れで珍しい事です
その分堰を切ったように襲い掛かってきました

 

このブログの最初の頃に書いた、樺島勝徳氏の禅体操の記事、コンスタントに閲覧されて有り難い事です
樺島勝徳氏の人徳、ネームバリューなのだろうと、感謝しています
さてこの禅体操、毎日やっていますが、花粉症にも良く効くので、是非お知らせしたいのです

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この禅体操は基本的には、呼吸法に合わせてインナーマッスルを調整し刺激するものだと思っています
なので、肩や腰、膝や踝の痛みに効きます
私が初めたのも、登山で痛めた膝に苦しみ、人づて本づてに辿り着いた樺島勝徳氏の本がきっかけでした
病院でも整骨院でも、永らく治らなかったのに、たちまち治ったのでびっくりしたものです
もう一つのびっくりは、その年の花粉症に、その春は掛からなかった事でした
この禅体操、花粉症にも効いたのです!

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私の花粉症は古く、高校生の時にははっきりと記憶があり、その当時は花粉症という言葉があったかどうか、と云う古い時代からのものです
且つ、重症、重体に属し、生活や仕事は当然、睡眠もままなりませんでした
長年、耳鼻科に行き、強烈なステロイド剤で押さえ込んでいたのです

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この禅体操で花粉症が治る機序ですが、私は以下のように解釈しています
禅体操で、体幹インナーマッスルが刺激され鍛えられ、姿勢筋が蘇り、胸が開き、背筋が伸びます
同時に、姿勢筋イコール呼吸筋ですので、その呼吸が深まり、大量の酸素が血液に補充されます
同じく、姿勢が伸びて上焦部が広がると、その場所つまり胸、顔、特に鼻にも多量の血液と酸素が供給されます
かくして鼻の粘膜が、血流から酸素と栄養を受け取り生き返り、花粉症に打ち勝つのだと思うのです


最期に、この禅体操、即効性があります!
鼻ズルが始まったら、即、禅体操を初めます
するとあら不思議、たちまち鼻ズルが収まります
数時間しか効かない場合は、体幹インナーマッスルが出来ていなくて、元に戻るからですが、その時は、またやれば良いのです
毎日やっていれば体幹が育つので、最初から鼻ズルは起きませんし、発症しても軽く済みます

 

あ、もう一つ注意すべき、大事な事があります
禅体操を欠かさないのに、ダダ漏れの鼻ズルに見舞われる事があります
この時は体が、代謝不足になっているのです
 
風邪を引く、と言います
その風邪とは、何でしょうか?
気が付かない内に、体を冷やしているのです
そうすると体は、遅れを挽回しようとして、体温を上げて、つまり熱を出して、遅れた代謝を挽回しようとします
この時もう一つ、体が冷えた分だけ、水分が汗として発散出来ず、小便も出ません
つまり体に、余分な水分が蓄積されます
これの挽回措置が、鼻水なのです
これが花粉と合わせて、鼻ズルになるのです
 
対応は、よく寝て、寝汗をかくことです
かいたら、よく乾いた下着に替えましょう

邪馬台国は熊本県、伊藤雅文氏

f:id:ondonpi:20180222144449j:plain古代に分け入り追っていけば、邪馬台国畿内説は荒唐無稽とすぐ分かる
確かに、魏志倭人伝日本書紀しか読まなければ畿内説になる、とは思う
 
その魏志倭人伝だが、伊藤雅文氏は、邪馬台国は熊本と、あっと驚く快刀乱麻、中国文献の読みの深さ広さを見せた
漢学者の魏志倭人伝論を見た事もあるが、上から目線だけで、魏志倭人伝を馬鹿にすればするほど、自分が偉くなると思っている論調で、内容は無かった
その意味でも、伊藤氏は偉い
 
その魏志倭人伝、改めて読んで思ったのは、その記述の完璧さ、簡潔さ、美しさだ
僅か二千字余りに、国々への里数、位置、戸数、政治体制、国際関係、経済交易、生業風俗を、まじまじと彷彿させて余りある
(これだけサービスして戴き、加えて遡る漢代の記述と、下る南北朝の宋代の記述が残る
後はその間を日本書紀で埋めれば、日本古代は嫌でも浮かぶ
勿論、古墳と神社と伝承の分析や、考古学の成果は感謝この上ない)
その魏志倭人伝と合わせて、かねてよりの自説を補強したい
 
1)誰もが驚くその最初は、倭人伝のその里数だ
帯方郡から七千里で狗邪韓国、千里で対馬国、千里で一大国、千里で末盧国、五百里で伊都国、百里で奴国、百里で不彌国と続く
これでは後を読もうという気が無くなる
その里数だが、伊藤氏は一里は70mと言う
そうすると倭人伝は、帯方郡(ソウル)から490kmで狗邪韓国(釜山)、70kmで対馬国(対馬)、70kmで一大国(壱岐)、70kmで末盧国(唐津)、35kmで伊都国(糸島市)、7kmで奴国(福岡市)、7kmで不彌国(博多)となって納得の数字になる
 
2)進む前に、倭人伝は、狗邪韓国を倭国と認識している事に驚く
狗邪韓国を北岸と書き、朝鮮は倭と接していると書いているからだ
私も丹後王国を調べた時、朝鮮南岸は倭人で溢れており、ここは倭ではないかと思った
そうすると貿易ではなく、国内流通になるからだ
倭王武も、北は九十五ヶ国を平定と言っているが、これとも符合するのだ
(これは二言目に渡来人と叫ぶ学者とも異なるし、楽浪郡は出張所であり征服されたのではないと言い張り、ましてや朝鮮に一寸たりとも倭の地は無かったと言い張る韓国人とも、異なる立場に私は立つ)
 
3)さて魏志倭人伝の問題中の問題、水行二十日で投馬国・水行十日陸行一月で邪馬台国、との記載、これに学者は長く悩まされ、分裂した
為に邪馬台国は、東は大和から南は沖縄迄、日本各所に比定され、未だに決着していない
私は不思議に思う、倭人伝ではこの行程の最後に、合計で万二千里と記しており、これから不彌国迄を引くと、千三百里になるではないか
これを分けて例えば六百里と七百里にすれば、不彌国(博多)からの行程は、42kmで投馬国(吉野ケ里)、49kmで邪馬台国(熊本)と判明する
その六百里を水行二十日、七百里を水行十日陸行一月と書いたのは何故か、これを伊藤氏は、宋代の時代背景から解読し、善意の改竄と、喝破したのだ
邪馬台国は北九州のどこか、とは思っていたがこれですっきりした
 
3のおまけ)
この部分は後日の挿入したものです
詳しくは伊藤雅文氏に譲り、大まかに述べます
 
さて魏志倭人伝には「邪馬台国は会稽東治の東」と事もなげに記されている
私は不思議に思う、全行程万ニ千里と共に、学者は何故これを言わないのか、と
中国の江蘇省に会稽東治と言う土地がある
揚子江の河口で、紹興酒の産地に近い
実はその真東に、熊本がある
この時点でいくつも驚く
この時期に、緯度の概念はあったのか?、と
もう一つこれは、漢代と魏のこの時代、政治的安定の元での、東シナ海の豊かな交流を意味している
邪馬台国が会稽東治の東だと言う事は、これらを踏まえなければあり得ない
魏志倭人伝に現れる魏の官吏は、人跡未踏の南極大陸に行ったのではなく、逞しい民間交流の足跡をなぞっただけ、という事なのだ
従って本来の魏志倭人伝には「不彌国(博多)からは百里投馬国(吉野ケ里)、百里邪馬台国(熊本)、帯方群から合計万ニ千里」と書いてあった、筈である
西晋陳寿三国志を書いた280年に、この事を疑う者はいなかった
 
ところがその後五湖十六国と南北朝の混乱時代に入り、東シナ海の交流が絶え、「邪馬台国は会稽東治の東」の常識が実感から消え、文献上だけの存在になった
困った事に、福建省に会稽東冶と言う似た地名がある
さんずいとにすいの、点一つの違いで、誠に紛らわしい
その会稽東冶は福建省なのでぐっと下り、その東は熊本ではなく、距離的には沖縄辺りまで遠のく
決定的だったのは、432年に後漢書を書いた宋の范曄がその中で、「邪馬台国は会稽東冶の東」としてしまったのだ
勿論彼も悩んだと思うが、既に実感は失われ実証不可能であり、机の上だけで考えた結果なのだろう
いずれにせよこれが国の、公式見解になってしまった
(つまり文部省検定済になった)
そうすると本来の魏志倭人伝の「不彌国から百里投馬国、百里邪馬台国」ではとても「会稽東冶」まで届かない
仕方なく、魏志倭人伝をいじらなければならなくなった
それでその里程、六百里を水行二十日、七百里を水行十日陸行一月として、水増しした
 
(話はそれるが、西晋陳寿280年に三国志を書き、宋の范曄が432年に後漢書を書いた、と言う事に疑問を持たれたろうか?
王朝は後漢の後が魏なのに、正史は三国志が先に出来て後漢書が後に書かれた
大逆転している
五湖十六国と南北朝の混乱が、ここにもある
まして「邪馬台国は会稽東治の東」か「会稽東冶の東」かなど分からなくなって当然、そもそもその間150年に亘り、二十個ほどの王朝に跨っている)
 
4)倭人伝が記す戸数も、古代を考える時、国力や軍事力を考える時、重要な数だ
奴国がニ万戸、投馬国が五万戸、邪馬台国が七万戸で、他は数千戸が並ぶ
村の規模、村の大きさなのだ
戸数最大の邪馬台国が、北九州を統一した事がよく理解できるし、当時の戦争がどのような物だったかを推しはかるよすがになる
 
5)同じく漢書で、朝貢し金印を授受した奴国だが、この時期は邪馬台国支配下に降っている事も分かる
倭人伝では、各国の政体も漏らさない
王は邪馬台国だけで、他の国は皆、官と副官だけが列記されている
 
6)狗奴国は問題だ、邪馬台国の配下にない
北九州の弥生人は、稲作が出来ないシラス台地の南九州には興味を示さず、進出しなかった
そこに在る薩摩日向こそ、独立国の狗奴国の立地があると思われる
それ故にこそ、こ薩摩隼人後の歴史や神武天皇に係わって来る事になる
 
7)倭人伝の最後に列記されるあまたの旁国は、上のように見てくれば九州が尽き、四国中国の国々であり、邪馬台国の範疇外である事も分かる
そこには出雲や丹後王国が、海路による交易にいそしんでいたのだ
後は私のブログ、「消された縄文、丹後王国」に続きます

七輪で焼き魚、新聞紙の火起こし、着火

焼き魚は、みんなどうしているのだろう?
ガスコンロ付属の、天火だろうか?
最近は、上火だけでなく下火のあるのもある
でも私はこれを、やらなくなった
受皿の器具、これが巨大で、その洗いが鬱陶しい
ある友人は工夫し、魚の下にアルミホイルを敷き、これで改善されたと言っている
でも最近は、フライパンにクッキングシートを敷き、焼くようになった
生魚だけで無く、干物、塩漬け、皆うまく焼ける

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ネットを見ていると、七輪とその着火法が賑わっている
で、お隣の七輪を借りてやってみた
七輪の内側に、丸めて棒状にした新聞紙をめぐらし積み上げ、真中に空いた穴に、火の付いた新聞紙を入れる
頃合いをみて、炭を乗せていく
最初新聞が燃えている時は、煙がでるから、屋外でやる
都会の庭先なら、かろうじてできる程度かと
新聞が燃え尽き煙が出なくなったら、室内に持ち込める、火鉢代わりにもなる
秋刀魚は勿論、屋外で焼くだろうが・・・

さあこれで、煙と油に燻された美味しい秋刀魚、ブリの巨大なカマが、食べられるゾ!

稲垣えみ子、GDP、自給自足、DIY

稲垣えみ子と言う人がいる
生活を徹底的に断捨離する、ミニマリストと言うのだそうだ
電気が、月150円とか
掃除機、洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、電気オーブン、エアコン、皆使わない
及ばないが、自分と似ていると思った

それを各所で講演した折、質問を受けた
その著書に沢山の栞を挟んだ人だったと言う
ただその本が図書館から借りた本と分かって激怒した、とツイートしてしまった
これでネットが炎上したという、稲垣はただのケチだと
ちょっと残念に思った、問題はもう少し深いものだと思うからだ

先ず、私が家電を使わないのは、落ち着いてみれば、その方が楽だからだ
掃除機と箒は同じ手間なのに、掃除機は時々そのごみ処理の作業が必要になる
エアコンも不要だ
趣味の登山で基礎代謝が向上し、夏の暑さは苦にならなくなった
断捨離が目的ではなく、その方が楽だったから、私は自然にそうなった

次に、家の20km内にスーパーが無い
食べ物は、畑で野菜を作り自炊した方が早い
物は、工夫したりDIYする方が早い
お金は急速に、要らなくなった
段々、自給自足、自由自作の生活になって行った
そして、これが楽しいのだ
生活が深く納得できるものになり、充足感が満ちてくる
都会での、働いても働いても、買っても買っても、埋められない飢餓感が、初めて消えた
人間はその体の周りに、ある程度の空間が必要なのだと思う
その空間が狭められ剥ぎ取られていくと、足りなくなる必需品を買う為、労働が生まれる
都会生活は、ねずみの回し車に似てくる
どれだけ走っても、一センチも進まない
この剥ぎ取られ方に正比例するのが、労働と購買だ
多くの人では、労働と購買の額は一致する
労働で金を得、購買でその金を消費するからだ
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その労働と購買だが、これがGDPでカウントされる
私はこれは、不思議な数字だと思う

労働と購買は、反対方向の動きであり、足せばゼロになる筈の、労働の金と、消費の金が、両方向でカウントされるからだ
何を言っているか、分かるだろうか?
例えば私の生活は、GDPにカウントされていない
耕すのと食べるのが一致し、作るのと使うのが一致し、その間に金は移動しないので、カウントされない
そうするとGDPを増やす為には、人から周辺空間を剥ぎ取れば良い事になる
沢山剥ぎ取れば、沢山の労働と沢山の消費が生まれて、沢山のGDPが残る
都会人は、私から見れば丸裸、丸腰に見える
平らな水面を叩いて波を起こし、その山と谷の数をカウントして何の意味があるのだろう
ならせば、元々ゼロなのに
これが経済だろうか?
これが増える事が、経済成長だろうか?

日本書紀の小嘘と大嘘、皇統譜

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以前のブログ「出雲神話は本当です」で皇統譜に言及した
初期の皇統譜15代迄は、日本誕生の動乱に関わった同時代の立役者、物部、出雲、尾張の王たちを、本来の横並びではなく縦に積み上げた物だ、と
それはどうも、小嘘に気が付いただけの事だったようだ

そして今回「消された縄文、丹後王国」で日本建国前夜の縄文人倭人、それらが担った日本海の交易をつぶさにのぞき込んだ
大和に統一王権が生まれると言うが、この環太平洋ならぬ、環日本海貿易圏を脇に置いて、尚且つそのおこぼれに預かりながら、大和が独立したり、日本建国などできる訳がない
自立の為には、先ず瀬戸内ルートが開かれなければならない
次に日本海ルートが凋落、或いは少なくともマイナールートに追い込まなければならない

それが現実の物になる訳だが、理由の一つは遊牧民の高句麗の南下であり、南朝鮮に展開していた倭人が、この戦争に連戦連敗を舐めている事である
古代日本が何度も朝鮮に出兵している事を不思議に思わないだろうか
これは朝鮮の依頼ではなく、自分の権益を守る為だったのだ
これにより日本海交易圏は、衰退していった
もう一方の瀬戸内航路だが、これは時代と共に拓かれて行き、時間の問題になっていた

私が言いたいのは、この条件が揃うのは遥か下って継体天皇辺りではないだろうか、と言う事だ
つまり、仁徳天皇雄略天皇も書紀では名君、大王扱いだし、日本全土に君臨したような書き方だが、その実は大和の地方史だったのでは、という気がしてならない
つまり、これが書紀の大嘘では無いだろうか
これは重大な事で、今後考察を深めて行かなければならない

ちなみに書紀が、神武以来の統一国家と言う、そんな嘘を構えたのは、不思議でも何でもない
一つは南朝鮮の権益を完全に失った白村江の大敗、この敗戦処理で唐に対して見栄を張らなければならなかったのと、もう一つは藤原氏の神話時代からの嘘を固める為に、歴史を飾った、それだけである

焼き芋、すき焼鍋と河原の石とガラス蓋

ネットは嘘だ!
・電子レンジは、弱い300Wがおいしい
・トースターは、アルミホイルに包み10分間隔の間欠スイッチで60分が美味しい
・オーブンは、190℃で60分がおいしい
みんな、嘘だった
まずくて食べられた物では無かった
勿論初歩的な食べ方
・茹でる
・蒸す
は昔から知っているが、焼き芋とは別の食物だ

その焼芋、ようやく成功!、の予感
すき焼きの鍋に、河原の石を入れ、サツマイモを押し込み、重いガラス蓋
最初強火、温まったら弱火で1時間
これがおいしい!
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正確に言えば、底側の、下半分がおいしい
ねっとり系の、おいしさだ
中頃を見計らって、天地を裏返せば、両側全部がねっとりし、良いのではないか
またこれは、鉄フライパンでも良いのではと思うので、後日試してみたい
あと、多少べたつくので、蓋をずらしてどうなるか
最後に、残りは後日チンしても、味は落ちなかった
これも重要、60分のガス代は大きいから、なるべくまとめて作りたい

冬の夜の軽トラの、焼き芋屋さん、同じ味になった

鉄鍋、ル・クルーゼ、ストウブ

アルミフライパンが古くなり、買い替えた
その鉄フライパンには、驚いた
きんぴらを作ったのだが、その美味しさ、何が起きたのかとびっくりした
つまり素材の味がビンビン伝わりおいしく、調味料が邪魔だと感じた
次からは勿論、醤油味醂を半分にした
日本料理は引き算だとは言われるが、この事だろうか

実はこの事、鉄瓶でも経験している
その湯は柔らかく、緑茶の味がまろやかだ
それで鍋物もきっと、と思い、高いル・クルーゼか迷った末、安いStaubの鉄鍋を買った
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あら小さい、が第一印象
24cmの鍋なのに、手持ちの24cmのガラス蓋がはまらない
ル・クルーゼの鍋では、蓋はぴったり入ったのに
胴体部分も、手持ちの24cm鍋の内側にすっぽり入ってしまう
キャベツのポトフが24cm鍋で作れなかったから買ったのに、それより小さい!
心配だ、背が高いのが救いか?

先ず、ご飯を炊いてみた
焚火の香りがし、びっくりした、美味しいのだ
多少の焦げがあったが、アルミ鍋だと薄く固い焦げになるのに、鉄鍋は薄く広範に及んでいたのが異なる
同じく美味しいフライパンの具を乗せて丼にしたら、誠に美味しかった
作り置き冷蔵したタッパのご飯も、味わってみよう

心配したその小ささ、翌日試した
中玉キャベツ1つ分のポトフがギリギリ入った
この調子なら、豚白菜、肉じゃが、カレー、皆大丈夫だろう
良かった・・・
でその味だが、うまい!
うまいにも色々あるが、最初からうまかった
アルミ鍋で作ると、最初まずく、翌日煮返してからうまくなる
それが、最初からうまかった

消された縄文、丹後王国

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割りと最近アップした記事「アイヌと縄文と蘇我氏」では、人類の「出アフリカ」から縄文人誕生への過程を試みました
出アフリカは、数万年〜数十万年に亘って波状的に発生し、ヨーロッパやアジアに広がります

この波は大きく三度有った、と思われます
第一波は抱合語語族と言われ、その言語は最下尾の語が上の語をまとめて受けとめる、と言う構造を持ちます
ドキッとしませんか?、日本語がそうなのです
「見渡せば花も紅葉も無かりけり、浦のとまやの秋の夕暮れ」
この歌は体言止めと言われ、最下尾の「夕暮れが」上の言葉全部を引き受け包み上げています
そして我々日本人はこの言い方に、奥底から共感し落ち着くのです

この抱合語語族は次に現れた第ニ波の膠着語語族、別名ウラルアルタイ語族に追われ、シベリア、日本、太平洋島嶼国、インドからシナの少数民、そしてアラスカ経由で南北アメリカ原住民となっていきました
日本人とアメリカインディアンのDNA、或いは日本語とタミル語の身体語が、酷似しているのはこの為です

さてウラルアルタイを故地とする膠着語語族は、更にその後現れた第三波の屈折語語族、別名インドアーリア語族に追われ、モンゴルや満州や朝鮮に移動し分散し、アジア人となりました
一部はマジャール語、トルコ語フィンランド語、バスク語としてヨーロッパに残存しています
アフリカに蓋をする地勢のヨーロッパ、イラン、インドの言葉が屈折語なのは、第三波が最後だったからです

さてその最初の新人類である抱合語語族が、後続の屈折語語族や膠着語語族に追われて辿り着いた先の一つが日本列島であり、その住民が縄文人でありアイヌ人となりました
両者の違いは、背後から迫り来る膠着語文化を、受け入れたのが縄文人、拒絶したのがアイヌ人です
別の言い方をすれば、日本古代を考える時、縄文を遡る遺跡は発掘されず、「縄文人が最初から居た」と考えるしか無いからです
その縄文人のルーツは、その言葉が抱合語である故に、その語族に求める他無いのです

その後の数万年の沈黙を経て、突然!?、現れるのが、日本書紀に記される出雲国です
その出雲を征服して三世紀に誕生したのが大和政権だとの趣旨で、遥か下った七世紀に、四百年も前の事を思い出して綴られたのが日本書紀です
これを書いたのは藤原不比等であり、当然藤原史観であり、藤原正当化のストーリーで貫かれています
その歪曲の度合いをあばき、真実の程を垣間見ようとしたのが、本ブログの初めにアップした「出雲神話は本当です」の記事でした
ただ、出雲を否定して大和が生まれたと云うのは、この意味に限れば、正しいと思っています

さてその中間、つまり列島に辿り着いた抱合語語族が、出雲国建国に至る迄の中間は、縄文時代と言い習わされます
その最初から最後への飛躍は大きい物がある訳ですが、これを埋める説明がなく、一っ飛であり、繋がらないのです
縄文時代にズームインすれば、何が見え、なぜ出雲国が誕生し、大和政権誕生に繋がったのか、それを私は知りたいのです

これから数次に亘り、縄文と、そこにあった日本海王国に分け入りたいと思います
現在の言葉、風習、考え方など、ゾクゾクするほどの共通点、そうだったのか感、満載の物語が展開します

[竪穴式住居、狩猟採集、丸木舟]
竪穴式住居や狩猟採集や丸木舟は、学校で教える縄文ですが、私には不思議でした、そんな生活、何が楽しいのだろうと
私の脳細胞が反応し始めたのは、各地の遺跡から黒曜石やサヌカイトが出ると知ってからです
これらの産地は、四国や伊豆諸島など限られています
三内丸山の青年が一人で、伊豆大島へ旅立つ筈はありません
これは通商ルートがあった事を意味し、ここに学校が教える狩猟採集の縄文イメージは崩壊します
そして縄文人の、生活を便利に楽しくとの思い、今日の我々と何ら変わらないのを知るのです

通商としての陸路は当然あったでしょうが、欠点は遅く少ない事でしょう
物量は一つの村に溢れて始めて、次の村に移ります
その点海路は、情報と同時的なスピードに加え、数と量が捌けます
つまり船です
船では海岸の村だけだと思うでしょうが、これに川を加えれば、一気に日本中が網羅されます

この船、もう一つ学校が教えた無知があります、丸木舟です
子供の頃ひと夏掛けて、ドラム缶を金鋸で縦割りにし、バスタブの様な船を作りました
水に浮かべたら、丸いからクルリと回転し、十メートルも行かず転覆します
もう恐怖で、海どころではありませんでした
海で転覆しない為には、西洋の竜骨船か縄文遺跡で見つかる平底船になります
その底板は、鉄も鋸も斧もない時どうやって作るのでしょう
丸太の目を読み、その目に沿って石の楔を沢山打ち込み、叩き割るのです
こうして得た分厚い底板に、丸木舟を縦に割った片方を舷側とし防波板として両側に当てるのです
さてこの平底船、今も漁村や海水浴場で使われ、使わない時は岡に引き上げられ、何の進歩もしていません
中国のジャンク船も、構造は同じです
(私が教科書で受けた違和感、ここではっきり分かります、縄文人を最初から馬鹿だと思っているのです
丸木舟は駄目と子供でも分かるのに、本しか読まない学者は平気で、縄文人は丸木舟と書くのです
利便と利益を求め、工夫と死力を尽くす縄文人、我らとどこが違うのでしょうか)

[因幡の八上姫、越の奴奈川姫]
さてこの船、この時代まだ帆は無く、手漕ぎです
恐る恐る海岸線を舐めるように進み、一体一日何キロ進むでしょうか?
潮の向きもありますから、十キロ〜三十キロでしょうか?
何処に寝るのでしょうか?
長旅の場合、食料はどうするのでしょうか?
商いの荷を積み、襲われないのでしょうか?

書紀は不思議と驚きに溢れていますがその一つ、大国主命は、因幡の八上姫や越の奴奈川姫と結婚しています
何故、唐突に、あんなに遠い所の姫と・・・
と思うのですが、これで海岸線と通商路の安全が確保される事に気が付けば、頭を痛打の衝撃に眩むのです

[倭王、武]
また、時代は下り五世紀の宋書に拠れば、倭王武が述べています
我が祖先は、東は毛人五十五カ国、西は衆夷の六十六カ国、北は九十五カ国を平定、と
どこにそんな沢山の国がと、呆れる数ですが、日本海の東の村々(都市国家)五十五カ国、日本海の西の村々(都市国家)六十六カ国、北の朝鮮半島の村々(都市国家)九十五カ国、と思えば俄然その数、現実味を帯びてきます
平定と言っていますが、通商関係に参加した日本海の村々(都市国家)と解すれば、深く納得するのです
さて、倭王の讃珍済興武が誰か、書紀は沈黙し、学者は分裂していますが、理由があります
後述しますが、この五王は大和の王ではないのです
これを見落とすから、議論は発散するのです
大和が眠っている時、足繁く朝貢していた倭の五王は、日本海の丹後の王だったのです
この時代まで下れば、村々(都市国家)との通商は、婚姻ではなく、朝貢的契約関係に変化している事も分かります

[縄文と弥生]
縄文人は教科書に云う、竪穴式住居と狩猟採集の民ではありません、通商と交易の民です
その交易は陸より、海と川がメインです
海と川との交点、即ち河口は当然交通の要衝となり人が集まり賑わいます
現在の大きな都市が大きい川の河口にあるのは、これが理由であり、起源は縄文に遡るのです

そして日本列島沿岸各所は元より、朝鮮半島南部で平底船の行き交う光景が見られた筈です
大まかには、北九州、日本海沿岸、薩摩、大和、尾張、関東などでしょう

その一つの北九州ですが、その平野には、弥生人が割り込んで稲作を始め邪馬台国を建国し、海岸部と島嶼部には、縄文人の宗像海人族が住み分けて、ダブル構造を成していました
ちなみにこの北九州がいい例ですが、縄文と弥生、或る年月を期してバトンタッチしたのではありません
桜前線の様に列島を北上したのでもありません
稲作は低地湿地を求めて東漸しますが、隣の山や森や海岸には縄文人が住んでいたのです
列島を斑模様に住み分け、縄文と弥生は共存拮抗していたと思った方が近いでしょう

[宗像氏]
縄文人を順次見て行きますが、一つ注意が必要です、縄文海進の知識です
今より数〜十数メートル海が高く、海岸線が数百〜数千メートルと陸に迫り、平野は少なく、今の多くの半島は島だったと言う事です
貝塚が内陸で見つかるのも、これが理由です

市杵島姫(いちきしまひめ)を祀る宗像大社辺津宮も、昔は島でした
陸との間の狭い水路は、日に二回の潮の上下で船が集散し、東に赤間水路、西に福間水路を分ける交通と通商の要の島に市が立ち、賑わったのが宗像大社辺津宮だったのです
だから元は宗教施設などではなく、実利を求めて人の集まる市場だったのです
神社と聞くと神聖な場所と身構えますが、コテコテの利益と実利、欲と得の交易所だったのです
後世でも神社には市が立ちますが、神社に市が立つのではなく、市に神社が立ったのです
何度も言いますが、欲・得・好奇心は縄文人も現代人も同じなのです

さてそこ迄は他の縄文地域の交易と大差はなかったのですが、鉄の出現で宗像は変貌します
鉄を産する加羅伽耶、そこは外洋航路です
最早海岸線を舐めるのとは、異質な技量が必要です
湍津姫(たぎつひめ)が祀られる宗像大島の中津宮、田心姫(たごりひめ)を祀る沖ノ島沖津宮、この二つの島を、宗像族はどれだけ感謝した事でしょう
かくしてこの二島の延長に対岸の加羅伽耶、現在の釜山への航路が拓かれたのです
言う迄もありませんが、盤石の壱岐対馬ルートは、久しく弥生人邪馬台国に抑えられています
縄文人が初めて、自前の貿易ルートを手中にしたと言う事です
因幡の白兎はこの過程で生まれた神話であり、私の出雲神話は本当です、に記しました
沖ノ島は、海の正倉院と言われるまでに大発展したばかりでなく、宗像氏は列島各地の縄文人の上に立つステータスを得ます
加羅伽耶への海のスパンは、他の縄文水夫、一日三十キロの技量と隔絶屹立したのです

[信濃]
また支族の安曇氏は、その名を信濃の山奥に残しています
つまり、信濃川を遡り、新潟から安曇野に至る広範な信濃を、建設建国したのです
海に川を加えれば、日本を網羅すると言いましたが、これが現実の物となったのです
この様な例は、他にもあった筈です

[瀬戸内]
一つ、瀬戸内が解せないのです
瀬戸内こそが最も海上交通が盛ん、と思いがちなのですが、神社が無いのです
後述しますが日本海沿岸には、手漕ぎ船の一日里程である三十キロ毎に神社があります
それが瀬戸内には無いのです
神社が無ければ、市が無く、市が無ければ、船も人も集まらなかった事になります

逆に最奥の河内に、住吉大社があり、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命の三神が祀られています、勿論宗像神です
これは何を、意味するのでしょうか?
瀬戸内は自身で海路を開拓できず、信濃の様によそ者の宗像氏によって拓かれたから、その神社が在るのだ、としか考えられないのです
そうなると瀬戸内の発展は、他の縄文地域に比べ、ワンクッション遅れる事になります
これが生命線の大和と河内は、オクテの縄文地域だった事になります

では何故開拓できず、何故海路が生まれなかったのでしょう?
瀬戸内は多島海で知られますが、暗礁が多いのと、潮が複雑なのとで、これが船運を遮ったのでは、と
手漕ぎは、潮にかないません
暗礁を開削するに多大な労力と年月を要し、また上層中層底層の潮を探索した労苦の記憶が、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命ではないかと、私は思っています
(学者はこれを、服従儀礼だと言います
スミマセン、スミマセン、スミマセンと謝るイメージからの連想です
それを言って、何が分かるのでしょう?)

[伊勢]
ちなみに瀬戸内を超えて紀伊半島を廻り、伊勢に迄宗像神が分布します
神武天皇を瀬戸内に案内した猿田彦のその神社、そこの祭神の底度久御魂・都夫多都御魂・阿和佐久御魂の三神は住吉と酷似し、宗像神と見るべきでしょう

[河内、大和]
メインの日本海沿岸に移る前に、大和を片付けましょう
オクテですが、後に大発展する土地です
記紀で感じる違和感の一つに、大和は豊葦原の瑞穂の国、と言うのがあります
葦は水草ですし、瑞穂は水と穂でしょうが、特別に水が多いと言うほどでも・・・、と言う疑問がずうっと残りました

答えは縄文海進でした
先ず大阪ですが、河内平野は存在しませんでした
海の底だったのです
南から上町台地が伸びて、北側の千里丘陵に迫っていました
その内側は巨大な河内湖で、そこに淀川と大和川が注ぐ、汽水湖だったのです
その水が、上町台地千里丘陵の間の僅かな隙間から、潮に合わせて滝のように河内湾に落ちます
その浪が速い所から、なみはやと言われ、なにわ(浪速)が生まれ、訛ってなんば(難波)が生まれます

次に大和盆地ですが、これもその南に巨大な湖、大和湖がありました
そこから流れ出した大和川が、信貴山葛城山の間を抜け、河内湖に注いでいました
これで初めて、豊葦原の瑞穂の国が納得できます
そうするとここでの海路は大和川を上下する、大和の穀物と河内の魚の、小さな交易でしかありえません
この時期、瀬戸内は開削されていませんから、魏に朝貢どころか、外洋船の知識や技術も無かった筈です
邪馬台国畿内説は、空論と言えます
ちなみに、河内湖と大和湖を埋めたのは、海退と、川が運ぶ土砂ともう一つ、後の秦氏の渡来と技術力を待たねばなりませんでした
秦氏は技術技術と云われますが、何をしたのか誰も言わないのでフラストレーションが溜まります
具体的には、河内と大和に広大な田畑を干拓し造成し、列島最大の人口キャパシティを用意したと言う事です

[尾張、坂東、薩摩]
この三つの地域も、河内大和と同じくその中での交易はあったと思われますが、他の地域と結んだ通商は少ないように思われます
黒潮が強過ぎるのと、房総半島、三浦半島伊豆半島など、手漕船にとっては迂回路が多過ぎたのかなと思われます

[鉄の海]
さて、豊かな日本海に行きましょう
これが豊かなのは、理由があります
先ず、九州から出羽や陸奥に迄繫がっている事です
倭王武の証言の通りです
次に、繋がった海岸線から川を遡り毛細血管の様に、列島が開発された事です、安曇野の様に
三つ目に、加羅伽耶から宗像を経ての、鉄の登場と流通です

これが為に、日本海側が鉄の生産地、つまり精錬地や加工地となり、他方の太平洋側が鉄の消費地と、性格を分けて行きます
そして迎えた三世紀、この生産地と消費地の力学が逆転します
その混乱の時代の断片と残骸を、下った七世紀に恣意的に抜き取って盛った他人丼のような書物が日本書紀と、私は思っています
この過程で、抹殺されて消えたのが丹後王国であり、名は残るも無残な形に矮小化されたのが出雲王国です
その丹後と出雲を、これから復元してみたいのです

さて海路を行く手漕ぎ平底船は、その一日の里程、十〜三十キロ毎に津が必要です
その津は岩場や深い港ではなく、夜は平底船を引き揚げられる砂浜で、波風を避ける入江や河口であれば最良です
船団を組んでの長旅ですから、大勢が休める寝食の接待所が必要です
その地には市が立ち、神社が残るでしょうし、精錬や鍛冶場の遺跡があるかもしれません
これらを辿って行く事になります、しかもちょと内陸側です

[長門、石見]
宗像三神を経た鉄は、穴門(関門海峡)に向かいます
下関には鍛冶場跡の綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡と、 戦士の墓の土井ヶ浜遺跡があり、長門には堀田遺跡が、石見には温泉津(ゆのつ)の龍御前(たつのごぜん)神社があります

[出雲、伯耆因幡]
出雲には出雲大社荒神谷遺跡、伯耆の大山町には妻木晩田(むきばんだ)遺跡など、最大級の遺跡の数々が有り、誰もが知る記紀の三分の一を占める、大舞台です
出雲は、加羅伽耶の粗鋼の精錬製鉄工場であり、東と西の中継貿易港であり、日本海航路最大の中心地だったと知れば、以下の疑問はたちどころに解決します

須佐之男命は最初朝鮮に行き、こんな木の無い所には住みたくないと、出雲に至り木を植えます
これは当時の時勢そのままです
この時期朝鮮半島は、既に禿山となっています
鉄一トン、山一つです
もう一つ、須佐之男命は朝鮮帰りと言っています
書記の文脈からは、唐突感を感じますが、当時の常識だった筈です
鉄を仕切り差配する出雲建国の王が、朝鮮を知らなければモグリです
と云うかこの時期、日本と朝鮮はズブズブの関係だった筈です

恐ろしい八俣の大蛇は、お伽噺でしょうか?
目は真赤なほおずきのようで、胴体には苔が蒸し杉や檜が生え、腹を見れば血が流れ出し血膿の如し、と
これは山会いと谷戸に散在する製鉄所ではないでしょうか、夜も落ちない鍛冶場の火はチロチロと漏れ光り、その様子はこの形容にピッタリです

因幡の白兎は、メルヒェンでしょうか?
鰐を並べさせその背を飛んで数え、後一つの所で騙しがばれて赤裸にされます
その白兎は、沖ノ島出身を名乗っています
つまり白兎の宗像氏は、邪馬台国麾下の壱岐対馬の島の並びを鰐に例え、この調略を試み露見したのです
出雲はこれを助けて共に組み、因幡の八上姫と結婚し、これにより加羅伽耶から宗像氏を経て日本海への貿易ルートが開通したのです
メルヒェンどころか当時の世界を股にかけた、政治と経済と貿易ルートを大転換したダイナミズムです

その後更に、大国主命は越の沼河姫とも結婚しています
何故に、唐突に、こんな遠い所の姫と、と思います
答えは簡単です、八上姫で因幡迄の海路が、沼河姫で越後迄の海路が、確保されたのです
もう一つ、国譲りを迫られた時、大国主命は美保の岬にいる息子の事代主の神に聞いてくれ、と言っています
何故、若狭の美保の松原に居るのでしょうか?
この大出雲製鉄商事株式会社の、出雲本社には大国主命が社長、若狭の美保岬には息子の事代主神が支社長、因幡と越後には営業所を置いて、港の接待所と人夫、市場の運営、海路警備など、一言で言えば制海権を維持したのです
その事務所が、神社だったのです
その神社を宗教と思い、頭が竪穴式住居と狩猟採集に浸っている限り、神武も崇神も大和政権も生まれる素地はありません
二言めに、渡来人帰化人と叫ぶ事になります

出雲風土記の国曳き神話は、子供をあやす荒唐無稽な寝物語でしょうか?
この時期は縄文海進で、出雲半島は当時、島だったのです
陸との間の狭い水路は、波風を避ける日本海最高の良港であり、これこそが出雲の立地だったのです
また書記は出雲をして葦原中つ国と言い、水が豊かな国と、ことほぎ祝うのもこれが由縁です
ところが海退と、斐伊川の土砂で繋がってしまい、島が半島になりました
これの記憶が、国曳き神話です
同時に天然の良港が、岩場だらけの長い半島を遠回りする、危険な悪港に一変しました
出雲の衰退が始まったのです

出雲の国譲りは、大和の武力よりは、こちらの方が大きかったのではないでしょうか?
もう一つ、出雲のハンディは近くに大消費地が無かった事でしょう
山が迫り小さな扇状地の広島は当時、縄文海進で海の底でした
事情が分かって来れば、武力制圧は出雲より、次に述べる但馬丹後若狭の事件であり、丹後王国の存在を抹殺したい事情が藤原氏の大和側にあった為、これを出雲に差し替えたのが日本書紀ではないかと思えて来るのです
その嘘を塗り固める為に、わざとあんな立派な出雲大社を作ったのでは、と思うのです
他の日本海側の神社は、寒風に打ち破れ神すさびます

(話しは少し逸れます)
因幡の素兎は、出雲の黎明を高らかに宣言する神話ですが、この話は古事記に現れ、日本書紀にはありません
藤原政権により何十年も差し止められ検閲を受け続けた出雲風土記は、出雲終末の挽歌を奏でる国曳き神話を当てられたのです
この違い、最初は気が付きませんでした
つまり古事記は出雲を誇り、日本書紀は出雲が疎ましいのです
日本書紀が、丹後出身の蘇我氏を暗殺した藤原氏によって書かれた、との疑いはここに生まれ、もう一つの高御産巣日神藤原不比等の相似性と併せて、確信となるのです

[但馬、丹後、若狭]
荒神谷遺跡の発見以後は、出雲神話絵空事と言う人は居なくなりました
ただその出雲より大きかった筈の丹後が、書紀に書かれていないのが不思議です
チラと言いましたが出雲には、消費地が無いのと、港が埋まったのとで、自然消滅状態だったと思うのです
一方の丹後は、大和、河内、山城、播磨、吉備、尾張と、背後に大消費地を抱えています
その遺跡も数珠繋がりに、密集しています
ところがこれに対応する、書記の記載が無いのです

先ず丹波・但馬・丹後ですが、最初は丹波一つでした
奈良時代律令制で、三分されました
朝鮮の文献にタバナと出現するのは、最初の丹波です
順に見て行きましょう
但馬の豊岡市内陸の出石に、袴狭(はかざ)遺跡があり、手漕ぎ船の船団そのままに描写する、線刻画があります
縄文海進で現豊岡市全体が汽水湖に沈み、内陸側の出石に達し、入口は狭く、良港でした

これに相当する記事はすぐ見付かります、天日槍です
渡来人で、天皇に土地を与えようと言われたが、自分の土地は自分で探すと豪語し、但馬に行ったと
さてこの人物、朝鮮の処伝に新羅王として現れ、海の向こうのタバナ国から、と言っています
また自ら、彼地の東北千里、と具体的です
この時期起点は宗像ですから、その北東千里の丹後は、理に叶います
返って書紀の渡来人との記載に、疑念を孕みます
その人物も、その土地も触れたくないと見えるのです

もう一つ、播磨風土記です
天日槍は播磨に現れ大国主命に、あなたは大きな国の主なのだから、自分に土地をくれと頼みます
大国主命は海を指差しあそこならと言います
天日槍は海に剣を立てて掻き回し、波の上に座ったと
その海には淡路島があり、そこには精錬所の遺跡があって、100年程続いた事が分かっています
そこで鉄を作り、河内大和の消費地に運んだのです
驚き地図を見れば、この事件の舞台は播磨国揖保川なのですが、現在の地図でも揖保川上流の僅か1kmを峠で越えれば但馬に入り、大屋川から円山川そして出石へと繋がるのです
この時期、船が山を越えるのは常識です
各地に船越の地名が残ります
これに関連して、この時期瀬戸内は繋がっていなかった事が分かります
繋がっていないから、山を越えたのです

さてこのルートは100年程で放棄されます
もっと良いルート、丹後・若狭・気比大社・琵琶湖・淀川ルートが開拓されたのです
ここから山城・河内・大和・播磨・吉備・尾張の、畿内の大消費地が初めて繋がったのです
このルートのネックは、丹後半島でした
半島の外側は岩場と絶壁、手漕ぎ船が休む浜は皆無で、長野正孝氏に拠ればその里程は7日です
とても手漕ぎで迂回できる半島では無かったのです
逆に丹後半島の付け根は縄文海進で、西から朝茂川、東から野田川が迫り、半島はちぎれちぎれの皮一枚状態でした
船は・・・、また山を越えたのです

(話は逸れますが)
神社の神輿の起源は、宝船の山越え、船越しでは無いでしょうか
宝満載の船を、先ずは川を曳き、最後は峠を担ぎます
この時の水夫と若衆、腿の筋肉、肩の筋肉、声を張り上げ、掛け声勇ましく、その連帯感と達成感、神輿以外にありません
これを遠巻く乙女たち、力水を掛けて囃します
男の歓び、これに過ぐる物はありません
これから10ヶ月、多くの子が生まれた事でしょう
また神輿には、曳く神輿と、担ぐ御輿があります
海の近くの神社の神輿、最後は海に入ります
何から何まで、ピッタリではありませんか

詳しく見てみましょう
丹後半島の西は久美浜湾の、函石浜遺跡、浜詰遺跡
網野町の、銚子山古墳
朝茂川河口の弥栄町から中流峰山町に至る、扇谷遺跡、多久神社、遠所遺跡
朝茂川上流の大宮町の、大宮売(おおみやめ)神社
そこから山を越え若狭湾は、阿蘇海と天の橋立の中央に、野田川河口の、大風呂古墳群
若狭湾を渡れば、敦賀の気比大社
まるで大製鉄コンビナート、大商業コンプレックス、鉄と交易のコングロマリットなのです

(結論の予感)
ハイ、西の大出雲「製鉄商事」株式会社と、東の大丹後「製鉄物産」株式会社、これが縄文の原風景なのです
この物産と商事が、商い人縄文の遺伝子を形作ったのであり、これこそが日本人のDNAだと主張するのが本稿です
これによってこそ、竪穴式住居や狩猟採集や稲作農耕民説で残る違和感が克服でき、また日本人や自身の奥底に潜む、自由への蛍火が納得できるのです
合せて、日本人に特有な天皇の、その起源と由縁も、文中文末にちりばめます

さて問題は、これに対応する書紀の記載です
無いのです!
このお陰で、豊かさのきっかけを掴んだ筈の大和、後に大発展する大和、その書紀は何故沈黙するのでしょう
貢献度ほぼゼロの出雲に書紀の三分の一を割愛して、何故丹後はゼロなのでしょう
理由は、丹後の王が蘇我氏だったからです
その蘇我氏鎌足が殺し、その子不比等が書紀を書いたからです

[縄文の大王、天皇のルーツ]
疑問に思った事はありませんか?
何故倭の五王が、容として解明できないのか
倭王武は、我が祖先は、東は毛人五十五カ国、西は衆夷の六十六カ国、北は九十五カ国を平定、と
この意味もうお分かりでしょう
こんな事、大和の王に出来る事では無いのです
と云うか、大和は王の生まれる土地柄ではありません、後発なのです
王は、既述の出雲や丹後の他は、吉備に物部氏尾張尾張氏、後は薩摩や関東や会津に王の雛形は有ったでしょうが、それらの王はその土地の王です
大和は、それらが寄り合いをする為に集まった公民館です
その場所として現実の物となったのが、大和の纒向であり、これは丹後と尾張の公民館でした
その噂を聞きつけ集まったのが、物部と出雲ですが、これは別のブログ記事、出雲神話は本当です、に譲りましょう

言いたいのは、天皇のルーツです
丹後の王と他の王とは、明確な一線があります
丹後は、五十五国、六十六国、九十五国に号令をかけて立った、と言う事です
号令と言っても、憎まれる税金や徴兵ではありません
これら連合国を統べて交易し、これらに鉄と食と富を分け与えたのです
それだけで無く、海から川を遡り土地を拓き、列島に毛細血管の様な新天地を、分け与えたのです
人々は神社を建てて丹後の神を奉り、どれだけ感謝したか分かりません
最初の収穫、即ち初穂を神に捧げるのは、どれ程の当然の上の当然か、計り知れません
ちなみにこの丹後の神が後日、出雲神としてすり替えられ習合されますが、恐らくは不比等の所作と、私は睨んでいます
私見によれば、天日槍、倭の五王神功皇后神武天皇応神天皇継体天皇は丹後の王であり、武内宿禰はその臣です

皇統が途絶えた時、大友金村が新天皇・継体を求めて、一直線に越に走ったのを、不思議に思いませんか?、何故でしょう?
天皇は丹後の王しか成れない、最も根本的な理由、それは日本海の王、丹後の事蹟、丹後の神様への感謝です
これが一万年経って、いまだに続く縄文の遺伝子です
網野善彦氏は中世を研究し、山の民を調べ、天皇のルーツに迫るも、成功しているとは言えません
私見では、山の民では無く、海の民だったのです

ついでにもう一つ、大伴氏です
何故天皇を探す役目、これを大伴金村即ち大伴氏が担うのでしょう?
丹後の大王には、その回りに伴をする者が、あまたあまたおりました
今の言葉なら執事、秘書、親衛隊、各種省庁でしょうか
これらあまたの伴を束ねる役職が、大伴なのです
その家柄が大伴氏なのです
だからその金村が、越の国に走ったのです
彼は当然の役目を果し、総てを知っていた筈です

その他、古代史の疑問、書紀の疑問の数々が目狂めく解き明かされます
何故天日槍の歩いた跡に、秦氏が居るのか
針間(播磨)と山城(の太秦)、ここは秦氏の本願地です
何故神功皇后が、角鹿(つぬが)の気比大社で軍旅を発したか、またやすやすと北九州宗像まで進軍するのか
何故応神天皇が、気比大社と名を交換したか
書紀は、全く別の国の王を、大和の皇統譜に勝手に紛れ込ませたのです

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とは、角が生えた恐ろしい人と言う意味です
つまり般若の面のモデルです
天日槍でしょうか、応神天皇でしょうか
詮索してもあまり意味は無いように思われます
この丹後王国を差配した王は皆々、神より恐ろしい、神の上の神だったのです

この後は、私のブログ「出雲神話は本当です」に繋がりますが、一つ申し上げなければなりません
丹後は、滅びる運命にありました
縄文も終わりに近づき、鉄を媒介にして各地が結び付き始めたのです
丹後は日本海沿岸に、まとまりを形成します
弱点は沿岸を繋ぐ針金の様な形で、国土的地勢的に難がありました
他方畿内は土地が広く人口を擁し、鉄の消費地として存在感を高めます
同時に瀬戸内の海路開発と結果としての畿内の自立は、時間の問題になっています
また一方の北九州には、邪馬台国が跋扈しています
この三者間で、思いもよらぬ悪夢のような事件が勃発したのは、歴史の妙であり、人間の不思議です

大和の纒向に集まった縄文豪族から、瀬戸内の大豪族崇神が押されて天皇になりました
一方丹後王国最後の女王神功は、武内宿禰と共に軍旅を発し、邪馬台国を征討します
これで始めて日本が統一、誕生したのです
所がその余りある軍功を恐れた瀬戸内の崇神尾張日本武尊は、神功に追討軍を送ったのです
神功はその子応神と共に丹後を敗走し、越の奴奈川で殺されます
応神は抗戦するも破れ、諏訪大社に閉塞します
神功と武内宿禰の異父弟神武は、薩摩隼人に匿われ、天孫降臨の神話を携え、日向に亡命します
これが後日迎えられて、天皇になりました
流行り病と天変地異が表の理由ですが、本当の理由は、縄文を通底する丹後の神への感謝、その血筋蘇我氏への感謝、その頂点である天皇への敬慕だったでしょう
また近江三船が神と讃えたのは、崇神•神功•応神•神武だけですが、この四人こそが日本誕生の動乱と断末魔の立役者だったからです
これが、総てを知っていた近江三船の、後世への暗号でした

[エピローグ]
近江商人の三方良し、という言葉があります
売り手良し、買い手良し、世間良しです
その高い倫理観に頭が下がり、この気風は如何にして生まれたのか、不思議です

次にこの気風は、いつ生まれたのでしょうか
秀吉ですが、近江を任され現地採用した家臣は皆々、経理の才が立ったといいます
四国遠征、九州遠征、関東遠征など、その大軍を動かし、兵站を維持出来たのは、彼らの力量に依るものです
秀吉は商人を選んで、家来にしたのではありません
つまり近江は商人だけでなく、その素養は広範に、一般に浸透していたという事です
これが、第二の不思議です

近江一円の才となると、一朝一夕に形成されるものではありません
歴史が、しかも数世紀に及ぶ経済のうねりのような時代の裏付けが必要になります
それは、いつの時代でしょう
戦国時代は戦に明け暮れ、商いには逆風です
と言うか、高い倫理性とは相容れません
平安時代律令と言われますが、これは人を土地に縛る農奴化の事です
これが近江の、三つ目の不思議です

最後の四つ目の不思議、何故近江か、という疑問があります
これには答えが用意されています
交通の要衝、と
確かに琵琶湖の水運が、畿内尾張、越への通商の要となっています
ただこれは、立って見た地平の手前の景色を、形容しただけの答えです
その時目に入った景色を、叙述しただけのもので、取材、調査、思考の跡は、感じません
この理屈なら、日本は近江だらけになります

これらの答えは全部、「一言」で解決するのではないでしょうか
「丹後王国」です
丹後王国は、東は五十五カ国、西は六十六カ国、北は九十五カ国を束ね、鉄と富と分け与え、土地を拓いたのです

海岸線は勿論、河川をさかのぼりました
但馬の出石から大屋川円山川揖保川を経て、播磨、淡路島、河内を繋ぎます
越の気比大社から、琵琶湖、淀川、河内、大和、尾張に達します
(尾張海部は音で読んでかいふですが、丹後籠神社の海部は訓で読んであまべです
尾張も丹後王国が拓いたのです)
新潟から信濃川をさかのぼり、安曇野を拓き諏訪に達します
(諏訪大社建御名方神の、終の住処です)
神話で確認できるのはこれだけですが、東北の河川でも、同じ事が起きていた筈です

次の証拠は、これらの地にびっしりと貼り付いた、丹後神社です
と言うとびっくりなさるでしょう
びっしり貼り付いているのは、出雲神だよ、と
これは藤原不比等が、憎い蘇我氏とその背景の丹後を抹殺する為、祭神をすり替えた結果です
当然民衆は反発しますが、これを抑え込んだのが出雲大社建造、だと私は踏んでいます

もう一つ、不気味な証拠があります
近江商人と並ぶあきんど、大阪商人、伊勢商人です
そこには住吉大社猿田彦神社、つまり宗像神が有ります
丹後と肩を並べて共に組んだ、その宗像氏の、その神社が有るのです
北は丹後王国が拓き、宗像氏は南の瀬戸内と紀伊半島を拓いた構図が、浮かび上がり見て取れるのです

最初に戻ります
近江商人の高い倫理観、これこそが丹後王国の商いだったのでは、と思うのです
だからあんなに沢山の丹後神、つまり出雲神があるのでは、と
この感謝が、二千年の時を越えて、その末裔、つまり天皇への思慕では無いかと

さてその後、鉄の生産地日本海と、鉄の消費地畿内の力学が逆転し、生まれたのが大和政権です
これは当然、貿易通商路の逆転でもありました
この後は日本海航路は捨てられ、その神社はすさびました
僅かに残ったのが、琵琶湖の湖運、即ち近江商人だったのでは、と
その倫理観、これこそが丹後王国だった、と

[神武東征]
先ほど不気味と称した、住吉大社猿田彦神社に係わります
或は大阪商人と伊勢商人と言ってもいい
更には本文中では、瀬戸内は自身で航路を開拓できず、宗像氏により拓かれた、従って最奥の河内に住吉大社が在るのだ、と申しました

頭が痛打の衝撃に眩みませんか?
神武東征のコースと同じなのです
河内で破れ、紀伊半島を迂回します

更に神話には、神武を瀬戸内に案内する猿田彦が現れます
その唐突感と違和感、ずっと引っかかりました
しかもその神社が何故伊勢に在るのか、謎の上の謎でした

今はっきり分かります
丹後王国は日本海の、宗像氏は瀬戸内と紀伊水道の、制海権を掌握していたのです
丹後と大和の力学が逆転し、日本の天地が動転した時、日向で無力化した丹後の亡命政権である神武と、物部の間に手打ちが成り、宗像は物部に靡き、神武を案内したのです

余談ですが、神武の大和入りに反対したのは尾張日本武尊です
物部の手足となって、同族の丹後を騙し討ちにしてまで働いたのに裏切られたからです
その物部が、丹後の神武と手打ちをしたからです
この尾張日本武尊、神話では土蜘蛛と名を変え登場します
或は、兄宇迦斯(エウカシ)弟宇迦斯(オトウカシ)として登場します
他にも逸話が挿入されますが、弟が反対し兄が諌める構図は不変です
勿論、兄が物部、弟が尾張日本武尊です
神話には千に一つの嘘も、ありません

自然農法

[無除草]
草のことを述べたい
私は自然農法に憧れて、畑を始めた
無肥料、無農薬、無耕起、無除草は福岡正信氏の四無主義
虫や草を敵としない、は川口由一氏
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最初にぶつかったのは草だった
次々に生え、一斉に生え、たちまちお手上げ状態になった
雑草は、強く早い
日照で負け、根張りで負け、私の野菜は消えた
炎天下の夏空、手作業の草むしり、三畝の畑は地獄だった

私は考え込んでしまった
竹内孝功氏は、苗の根本根圏は草むしり、成長した野菜の自立根圏の草は地表で刈り、その外の草との共存根圏の草は高刈りする、としている
川口由一氏も、地表に鋸鎌を走らせ草を刈っている
木村秋則氏のりんご畑が草ぼうぼうなのは、りんごの木が草よりも背が高いからであり、既に高刈り状態だからである

糸川氏はもっと素晴らしい
根圏などと細かい事は言わず、草は鎌で刈らず、平鍬ではつるのだ
最初畝を片側づつ平鍬ではつり、草を通路に落す
次に通路をはつり、炒飯状の草と土を畝に戻すのだ
これは同時に、土寄せが進行する事を意味する
これには脱帽した
ただこの為には、苗の両側をはつる為に、畝には一列しか植えられない
勿体無いから、畝はペアで作る、或いは畝の中央に溝を作ると云う感じになる

さてこれで解決、とはならなかった
私の畑が七畝に増え、糸川式でも追いつかなくなった
それに糸川式は、草丈が高く茎が固く丈夫になると、使えない方法だった
この時だった、「中耕」という言葉の意味を知ったのは
これは通路に耕運機や管理機を走らせる、と云うものだ
つまり、耕運により通路の草刈りをしているのだ
砕いた土を、畝とその草に盛れば、土寄せと同時に、草退治になる
耕運機が無ければ、刈払機でもいい、これで通路の草を刈る
残る畝の草だけなら、鋸鎌や草刈鎌で追いつく

私は思う、最大、最良、最楽の草むしりは、耕す事だ
思い返せば、私の畑は20年放置の原野だった
草丈は背を超え、向こうが見えなかった
これを私は迷わず刈り倒し、耕したではないか
最良の草刈りは、耕す事だ
種を蒔く時や、苗を移植する時、予め耕すのは、草をゼロにする為だ、当然だ
野菜が成長している時には耕せないから、苗に近い草は地表で刈り、遠い草は高刈りしているだけなのだ

因みに夏に生える、イネ科の雑草は要注意
根が逞しく、抜くと30cm四方の土もろとも抜けて、大穴が開く
且つこれは密生するから、二つ抜くと60㎝の穴が空き、隣の夏野菜、トマトやナス、マメ科やウリ科の根も一緒に抜ける
地表に鋸鎌を走らす方が、賢い
同様にブタクサ、アカザ、キク科の雑草、これも小さい内に抜く
根が大きいからだ
ありがたい事にまばらに生えるから、見つけて一本づつ抜けばいい

このような愚痴を聞けば何故、ビニールマルチを使わないか、と人は言う
事実大規模農家は勿論、有機栽培と謳っても、当然の様にビニールマルチ使っている
これをやれば、どうなるか?
有機体が土に戻らず、肥料が枯渇し、その先には悪魔の化学肥料漬けが待っている
同様に、篤農家が夢見る草一本無い畑は、真面目に見え、頭が下がるが、狂っている
この意味で私は、自然農法に留まっている

[無耕起]
無除草を語りながら、無耕起に付いても語ってしまった
つまり私は、無除草に加え、無耕起にも反対の立場を明確にする
加えて、施肥の事もある、これを鋤き込む為の耕起も必要だ
更に、じゃがいも掘り、山芋掘り、里芋掘り、ごぼう掘り・・・、事実上畝を破壊しているではないか

[無肥料]
次は無肥料だ
化学肥料は恐ろしい
最初はその効果、的面な効果に仰天する
実だけ、葉だけ、茎だけ、或はその三つが異状に肥大する
これを豊作と見るか、カタワと見るか

人にナスを沢山貰ったので、半分漬けた
漬かって取り出し手で水気を絞ったら、指の間からナスが、溶けて崩れてはみ出した、ジュルジュルと
細胞組織が、壊れているのだ
木村秋則氏のリンゴの腐敗実験と同じだ
その人は農協農法、化学肥料漬け農法の信徒だった
私の無肥料は、無化学肥料と云う意味でYesである

只私も、籾殻燻炭か有機石灰、ボカシ肥料はやっている
原生林だった畑、翌年はスギナが密生した
自然農法の人は、原生林は肥えていると言うが、その土は強酸性に偏していた
籾殻燻炭を施肥した翌年、スギナは消えた
見事と言っていい
またジャガイモもそうだった
畝に燻炭の有無、片方は芽欠きもしないのに大玉が揃い、他方は貧弱な小粒ばかり、効果は明白だった
肥料喰いの里芋でさえ、燻炭だけでもかなりの粒が揃う
ニンジンも、背割れが無くなり、青芯が消えた

ボカシは自分で作る、完全な有機を見届ける
或は、素性が確かなら、買っている
自分で作るより安いのに、脱帽する
さてこの意味で私は、無肥料とは言えない

[無農薬]
これは完全にYesだ
と云うのは、私は長く老人性アトピーに苦しんだ
医者も分からず、治らず、匙を投げ、十年近く経ってふとした事から、つまり掘っ立て小屋で自炊したら治った
無農薬、無肥料の自分の野菜で初めて、食品添加物から逃れられた
添加物、これが原因だった
その証拠に、スーパーの食品、実験的に一つづつ食べたら、二時間ほどして必ずアトピーが出た
食品添加物の無い玄米でも、アトピーが出た
玄米の栄養豊かな糠部分、そこには化学肥料と残留農薬も豊かだったと云う落ちだった

因みにスーパーの食品、包装されている物は全部アウトだった
包装は工場生産の証し、工場は必ず添加物を入れる
包装されていない物、大根、人参・・・だけが辛うじてセーフだった
意外だったのは卵と鶏肉、これが一番アトピーが激しかった
今のブロイラー、抗生物質漬けで工場生産されていると思いだした
只、鶏肉コーナーの一角、地鶏はアトピーが出なかったのは、新鮮に驚いた
詰まる所、食品添加物の親分は、化学肥料と農薬では無いかと疑っている
だから農薬は、決して使わない

もう一つ野菜に、病気を呼び、虫を呼ぶ原因は、化学肥料では無いかと思っている
と言うのは私の畑は虫が来ず、また来ても育つのに、隣の人は、白菜に不織布のトンネルをしても、薬をやっても虫が来る、と文句を言っている

私は化学肥料は、カタワを作ると思う
姿だけでは無く、細胞や組織が脆弱に育つのでは無いだろうか
だから病原菌即ち病気に掛かり易く、抵抗力が無いから虫に狙われる、と思えば納得がいく
そのような野菜が、胃袋に入り腸に入り、木村秋則氏の腐敗実験の様に、本来なら腸で発酵すべき物が、腐敗するからでは無いかと疑っている
化学肥料と農薬、これはイコールであり、セットではないだろうか